25年度に引退を迎えた4年生を特集する特別企画「光るとき」。第48回となる今回は、蹴球部の渥美和政(経4・慶應)。前主将・中山大暉 (令7環卒・桐蔭学園)の存在が大きく3年生まではなかなか試合に出場する機会がなかった渥美。しかし、中山の思わぬ負傷により、3年秋の早慶戦で対抗戦初出場。その大舞台で”2”番のジャージーを託された瞬間、黒黄ジャージーの重みを知る。そんな渥美の4年間を振り返る。
ラグビーへの考え方
中学校の学校見学の際に、ラグビー部の体験入部をしたことをきっかけに渥美は競技を始めた。慶應義塾高校に進学した後もラグビーをつづけたが「自分の中では不完全燃焼」という思いが残った。この悔しい思いとラグビーが心から好きという気持ちを胸に、慶大蹴球部に入部する道を選んだ。しかし、その後は険しい道のりであった。中高時代は、心から楽しんでできていたラグビーであったが、大学に入ると拘束時間も長く「若干ラグビーに対してネガティブに捉える瞬間もあった」と渥美は語る。しかし、渥美のラグビーに対する考え方は変わった。今までの楽しいラグビーという考えから、「誇りをかけた」ものとして考えが変わっていった。

前主将・中山大暉の存在
昨年まで同じポジションであるHOには125代主将・中山大暉がいた。彼は桐蔭学園出身で1年生の時から試合に出場し続け、圧倒的な存在だった。渥美は同じポジションとして、そのような彼の背中を追いながら、葛藤する日々が続いた。そんな中、3年の春シーズン頃は最も苦しかった瞬間だったと渥美は振り返る。当時は、自分自身が思っているようなプレーや結果が残せなかったことで、自分が望む立ち位置につけず悔しさを募らせていった。その一方で、この時期について「口ではネガティブなことを言っていたかもしれないけど、着実に成長に向けて努力できたことが結果につながることが学びとして得られた」とも振り返る。
3年秋の早慶戦前、まさかの出来事が起きた。中山の怪我である。そのような状況で、黒黄の”2”番のジャージーを託されたのは渥美だった。本来なら中山が立つはずだった大舞台。そんな中で、重圧と緊張が押し寄せた。
そして迎えた早慶戦当日。対抗戦では毎試合、4年生が手紙を綴る習慣がある。その日、渥美は怪我で出場できなかった中山から手紙を受け取った。この瞬間に渥美は、黒黄ジャージーの重みを感じたという。大舞台を経験したかったけれども、怪我でグラウンドに立てなかった悔しさ。それでも”2”番というジャージーを自分に託してくれた想い。それらを渥美は感じ取っていた。この瞬間、中山の想いが渥美に引き継がれた。

4年間を振り返り、渥美は「いかにグラウンドに立ち続けられるか」の大切さを強く感じたと言う。「タレントのある選手ではなかったため、そこでいかにチームや監督から信頼を得られるかが大事だったので、なるべく怪我をしないようにケアを積み重ねてきた。その中でも、良いライバルがいてくれたからこそ成長することができたなと思っている」。中山、山際毅雅(令7法卒・県立浦和)、山田空太(令7経卒・慶應義塾志木)藤森貴大(経3・慶應)といったライバルの存在が特に渥美にとって大きかったと語った。
後輩達に向けて
渥美が後輩に託す言葉は、「感謝」と「繋ぐ」の二つだ。今ある環境は当たり前ではない。多くの支えがあって成り立つもの。その「感謝」を胸に、掲げた目標に向かって進んでほしいと願う。同時に、良い文化は引き継ぎ、良くないと思う文化は当事者意識をもって向き合うこと。この積み重ねを通して、これから先の代へ「繋いで」ほしいとも願う。

慶應のジャージーについて渥美は「ほかの大学よりも重みのあるジャージーだと思う。才能のある集団に勝つために努力をし続けられるような人たちが着続けるジャージーなので自然と重みがある」と語る。4年間を通じて、その言葉の意味を知った。黒黄ジャージーが持つ重みは確かに次の世代へ引き継がれていく。
(取材:神谷直樹、髙木謙 記事:神谷直樹)

