24年度に引退を迎えた4年生を特集する「Last message〜4年間の軌跡」。第6回となる今回は、蹴球部の村田紘輔(経4・慶應)。
慶應義塾大学蹴球部のCTBとして活躍した村田。高校時代は慶應義塾高校でキャプテンを務め、強豪チームの中心選手として注目されていた。しかし、大学入学後の彼を待ち受けていたのは、想像を超える試練だった。
度重なる怪我と手術により、1、2年生のほとんどをリハビリに費やした。仲間がグラウンドで汗を流す姿を横目に、小屋で地道な回復訓練を続ける日々。何度も「ラグビーをやめよう」と考えたが、そのたびに支えてくれたのは家族と仲間だった。
そして迎えた4年生のシーズン、彼はついにスタメンの座を掴み、チームの中心選手として躍動する。そこには、ただの復活ではなく、積み重ねてきた努力と悔しさが詰まっていた。
ラグビーとの出会いは小学6年生。当時はサッカー少年だったが、新たなスポーツを探していた時、友人の誘いでラグビーの体験会に参加し、気づけばその魅力に引き込まれていた。
中学では神奈川DAGSに所属し、高校は慶應へ。キャプテンとしてチームをまとめながらプレーし、名門校の厳しい環境の中で成長していった。
慶應を進学先に選んだのは、桐蔭学園との試合を観戦したことがきっかけだった。敗れた試合でありながら、最後まで折れずに戦い抜く選手たちの姿に衝撃を受けた。早慶戦にも強い憧れを抱き、慶應でラグビーをしたいという思いが固まった。
さらに、中学時代のチームメイトや指導者にも慶應ラグビー部の関係者が多く、周囲の影響も後押しとなった。「お前は慶應っぽい」と言われることが増え、自然とこの道を選ぶようになった。
慶應蹴球部に入部し、新たな環境での挑戦が始まるはずだった。しかし、1年目に膝の手術を受け、そこから長いリハビリ生活が始まった。半年で復帰する予定だったが、術後の経過が思わしくなく、痛みが消えないまま再手術。結局、神経麻痺が残り、完全な回復は望めなかった。
2年間にわたり、試合には一切出場できず、リハビリ小屋でのトレーニングが続いた。同期がグラウンドで輝く姿を見ながら、自分は治療と回復に時間を費やす。精神的な苦しさは大きく、「このままラグビーを続ける意味があるのか」と何度も自問自答した。
そんな時、支えとなったのは家族と仲間だった。特に同期の渡邉海人(総4・明和)とは、お互いに怪我でプレーできない時期を共有していた。彼が学生コーチとなる道を選んだことで、自分はピッチに立つことでその想いを背負おうと決意した。

入部後の苦悩を語る
リハビリを経て3年生になり、少しずつ試合に出場する機会を得た。そして4年生となった今シーズン、ついにスタメンの座を掴んだ。
CTBとしてチームを牽引し、強みであるディフェンスとランで流れを作る役割を担った。これまでの試合ではリザーブ出場が多く、自分の実力を十分に発揮する時間が限られていた。しかし、スタメンとしてピッチに立つことで、「やっと自分のプレーを存分に出せる」という実感を得た。
今シーズンも決して順風満帆ではなかった。春には手の手術を受け、再びリハビリ生活を強いられることに。しかし、過去の怪我と比べれば、それでも前を向くことができた。「試合に出られる時間は限られている。だからこそ、一試合一試合、全力を尽くす」。その思いで、最後のシーズンを駆け抜けた。

試合に出れる喜びを噛みしめる
村田にとって、大学ラグビーで最も大切だったのは「支えてくれた人への恩返し」だった。どんな時も応援し続けてくれた家族のために、そして自分を支えてくれた仲間のために、最後まで戦い抜くことを誓った。
迎えた早慶戦。これまでの努力の全てをぶつける舞台だった。結果は悔しいものだったが、全力を尽くしたという実感があった。
「ラグビーはここで終わり。でも、この経験は一生続く」。そう感じた試合だった。
大学ラグビーを終えた今、後輩たちへ伝えたいことがある。「過去の伝統に縛られず、自分たちのスタイルを作れ」。慶應蹴球部は、様々なバックグラウンドを持つ選手が集まるチーム。その多様性こそが強みであり、決して「去年と同じやり方」に固執する必要はないと考えている。
来季のチームには、バックス陣のさらなる活躍を期待している。主力が多く残るため、「自分たちの強みを活かして自由なラグビーをしてほしい」と願っている。
(取材・記事:宇田川志乃)