25年度に引退を迎えた4年生を特集する特別企画「光るとき」。第12回となる今回は、蹴球部の米津幸治(商4・慶應)。「入部前はリーダーシップを取るタイプではなかった」という米津だが、大学1年の秋にバックスからフォワードに転向すると、練習に対する姿勢と周囲を巻き込む熱量を評価され、4年時にはFWリーダーに就任。持ち前のパッションで若いFW陣を鼓舞し続けた。何が米津を変えたのか。そして、何が米津の原動力となったのか。米津の4年間を紐解く。
直面した重み
父親の影響で小学4年生でラグビーを始めた米津。当時から毎年11月23日に秩父宮で早慶戦を観戦し続けており、年を重ねるにつれてその舞台への憧れは強まっていった。「高校3年生のタイミングで思いは固めていた。大学でラグビーを続けなければ絶対に後悔すると思った」と米津は振り返る。
しかし、入部当初は環境の違いに直面した。高校までと比べると、練習の強度は段違いに高く、ウエイトトレーニングやミーティングなど、楕円球とは距離を置く部分の拘束時間も長かった。部員だけでなく、社会人スタッフの数も増えた。社中一体となって本気でラグビーに打ち込む独特な緊張感の中で、126年の歴史を持つ慶大蹴球部でプレーすることの重みを実感した。
そんな環境の中で、米津の中にも意識の変化があった。「これが最後の学生スポーツになるので、より真摯にラグビーと向き合った」と米津は話す。一貫校時代からのチームメイトである岩垂樹希(政4・慶應)も、米津の変化について「高校までは人を引っ張るタイプではなかった」と語る。学生スポーツ最後の4年間に全力を注ぐことを決意した米津に、転機が訪れる。

訪れた転機
入部から半年が経とうとしていた時だった。栗原徹前監督(平13環卒・清真学園)に打診され、BKからFWに転向。「性に合っていたのか分からないが、ラグビーがより一層楽しくなった。そこからは時間の流れがあっという間だった」と話すほど、FWというポジションの魅力に引き込まれていった。
だが、新たなポジションへの適応を目指した米津の道のりには常に怪我が付きまとった。「自分がプレーできない間に、同期先輩後輩問わず自分のライバルがどんどん成長していく姿を見ると焦りを覚えたし、辛かった」と悔しさを滲ませた。そして、怪我に苦しめられたからこそ、負傷リスクを下げる努力に勤しんだ。FWである以上、コンタクトからは逃れられない。そのため、タックルやボールキャリーの際に怪我をしにくい体勢を心がけた。「グラウンドに立ち続けることを意識した」という3年生のシーズン、米津は徐々に頭角を表す。明大戦で秋季対抗戦デビューを飾ると、12月の大学選手権・帝京大戦ではブースターとして後半の40分間に出場するなど、4年生にFWの実力者が多かった2024年度のチームの中で、ポジション争いに食らいついた。
2025年、ラストイヤーを迎えた米津は、FWの新陳代謝が進んだチームのスクラムリーダーに就任した。米津は就任した経緯について「練習に対する熱量を同期たちが評価してくれた」と話し「自分がグラウンドで1番体を張って、1番声を出して盛り上げることを意識した」とこの1年を振り返る。一貫校時代から米津と共闘した渥美和政(経4・慶應)も「キツい時間が来て、声が少なくなってしまったり、暗い雰囲気になりかけるような場面でも、米津がパッションあふれるプレーや声でチームをまとめてくれた」と、米津のリーダーとしての手腕を称えた。

追い求めたロマン
幼稚舎時代から数えて13年間、慶應ラグビーに身を投じた米津。そんな彼に慶應ラグビーの真髄を聞くと、「ロマン」という答えが返ってきた。「体が小さかったり、高校時代は無名だった選手でも、全員で団結してエリートに打ち勝てるというロマンを追い求めるのが慶應ラグビー」と、プレー中と同等の熱量で慶應ラグビーの魅力を語った。
加えて、体格や技術を上回るために培われた団結力も慶應ラグビーの重要な要素だと米津は言う。「一貫校や黒黄会も含めて一体感を持っていて、たくさんの方々の支えの上に蹴球部が成り立っている。慶應ラグビーは日本一の組織だと思っているし、そんな組織を代表して黒黄ジャージを着て試合に出ることは特別」。プレーで、声で、誰よりも熱くチームを鼓舞した米津の原動力は、強い「愛部心」にあった。

「蹴球部で過ごす日々は人生の中でたった4年間しかない。ここで全力でやりきれなかったら必ずこの先の長い人生の中に悔いが残ってしまう。自分のような選手でも、諦めなければ必ずチャンスを掴むことが出来る。こだわりぬいて悔いなく学生スポーツを締めくくってほしい」と後輩にメッセージを贈った米津。学生生活最後の4年間を全身全霊で戦い抜いた慶應ラグビーの体現者は、新天地でも熱い炎を燃やし続けるだろう。
(取材:神谷直樹、髙木謙 記事:髙木謙)

