昨年、日本のバスケットボール界は大きな変化の時を迎えた。1998年以来21年ぶりにワールドカップへの自力出場を決め、八村塁(ワシントンウィザーズ)が日本人として初めてNBAのドラフトの場で1巡指名を受けた。大学4年生の代は「八村世代」と呼ばれている。その「八村世代」の1人がこの1年間慶大の4番を背負ってきた山﨑純(総4・土浦日大)だ。
8歳からバスケを始めた山﨑はこれまでに中学・高校と日本一の座を獲得している。その決勝の相手チームには八村がいた。結果だけ見ても山﨑のここまでの経歴は華々しい。それだけではなくリーグ戦開幕前の1年生対談では水谷祐葵(環1・四日市工業)が尊敬する先輩として山﨑の名前をあげた。また昨年春の京王電鉄杯、高校時代のチームメイトも在籍する日大と対戦した際には、観客席で応援する日大部員の口からも「純さんやっぱりすごい…」と声が漏れていた。そして早慶戦を目前に控えたOBとの交流戦では現役のB.LEAGUE選手でもある竹内公輔(H19年卒=現宇都宮ブレックス)や二ノ宮康平(H23年卒=現茨城ロボッツ)が試合後に注目した選手として山﨑の名前を挙げるなど、山﨑は名実共にキャリアを築いてきた。
高校生の時にはプロへ進む道も考えていた山﨑。高校のチームメイトが東海大や日大と言ったバスケ強豪校へ進学する中、「他にもやりたいことが見つかった」と慶大への進学を決め、プロへ進むという道を自ら選択肢から除いた。
慶大入学時、中高で日本一を獲得したという成績への満足感から、一度は燃え尽きてしまいバスケットボールに対する情熱を失った山﨑。「このチームで勝ちたい」と山﨑の心に再び火を灯したのは、真剣に練習に取り組む同期や先輩の姿だった。最後の早慶戦での優勝を「日本一になったときよりも泣いた」と振り返る。華々しい結果以上に喜べる、喜びを分かち合えるそのような仲間に出会えたのが慶大での生活だったのだろう。
慶大でのチームメイトへの感謝はもちろんのこと、淡々とインタビューに答えてきた山﨑が最後のインタビューで一番感情を見せたのは中高6年間という長い時間を共に過ごした松脇圭志(日大4年・富山グラウジーズ)について話した時であった。夏には3x3にも挑戦し、3×3 JAPAN TOUR 2019 OPEN Round.6 in Tachikawaでは権田隆人(H27年卒=現SANJO BEATERS)を決勝で破り見事優勝を納めた山﨑。3x3への挑戦を決めたのも、オフの期間に対人練習がしたいという山﨑の相談を受けた松脇の助言がきっかけだったという。松脇は今年1月、B.LEAGUE1部に在籍する富山グラウジーズと特別指定選手として契約。大学バスケで活躍を見せた松脇は「八村世代の最強シューター」との呼び声も高い。そのような松脇を中高とは違う立場から見る山﨑は、「羨ましいというよりは、もう1回一緒にバスケがしたかった」と思いを口にした。そして「プロでも日本代表だったり、トップを目指して頑張って欲しいし、自分もバスケを辞めるという決断をした以上は、プロとかで頑張っている人にも(社会人として)負けたくないなという気持ちです。負けたくない存在だし、頑張って欲しいと応援している存在でもあります。」と言葉を続けた。大学を最後に山﨑はコートから去る決断をしていたのだ。
山﨑は昨年のシーズンが終了した段階で、「8歳から始めたバスケの最後の1年になる」とバスケ人生に終止符を打つことを明らかにしていた。この1年間、インタビューで何度も繰り返す「後悔のないように」という言葉はまるで山﨑が自分自身に言い聞かせているようでもあった。
髙田淳貴(環4・城東)が最後のインタビューで「山﨑とかは下級生の頃から試合に出ていて凄い選手で、責任感とかも自分とは比べものにならないくらいあったと思う」と山﨑について話す場面があった。4年間共にコートに立ってきた髙田が感じるその責任感は山﨑のプレーや表情にも現れていた。
早慶戦での勝利を最後に、山﨑はコートの上で涙を見せることはなかった。最終戦が終わった際も静かにユニフォームの裾で顔を隠し、顔が見えたときにはもういつも通りの山﨑純に戻っていたのだ。昨年度のリーグ戦。僅差で敗れ、入れ替え戦進出を目指していた慶大が窮地に立たされた試合があった(記事はこちら)。その試合後山﨑は頭にタオルを被り、冷たくなった体育館の床に座ったままインタビューに答えていた。本人は「PGなのでもともと感情を出すタイプではない」と振り返ったものの、責任感からだろうか、主将になってからの山﨑は昨年のように試合後に感情を大きく表すことはなくなっていた。
春のトーナメント終了後には「試合に集中するあまり気持ちが熱くなりすぎて周りが見えなくなってしまうこともある」と自らについて話していたが、秋のリーグ戦では試合中も冷静な姿が多く見られた。強敵相手に点差が開いてしまった状態でも、主導権を握りベンチが盛り上がる中でも、山﨑は同じ顔で「まだいける、まだいける」と自分自身をチームメイトを奮い立たせていた。それが山﨑の目指した主将像だったのだろう。
プレー面では自ら「泥臭さ」を体現してきた。11月2日の拓大戦では何度もルーズボールに飛び込み、得点板やパイプ椅子に接触する激しさを見せた。接戦の中で諦めず最後の1秒までゴールを目指し続けた。部員が「慶大らしさ」とも呼ぶ「泥臭さ」をこの1年間で山﨑が体いっぱい表現し、後輩たちへ引き継いだことはまぎれもない事実だ。
この1年間は14年間歩みを止めずに進んできたバスケ道の、大きな大きな最後の一歩だった。昨年の4年生の引退で空いた大きな穴を痛感した春。最良の涙を流した早慶戦。自らのプレーをより良いものにすべく練習に励んだオフ期間。連敗の中で、「どうすれば勝てるのか」考え主将としてプレーでも精神面でもチームを牽引したリーグ戦。言葉通り山あり谷ありの1年間だっただろう。しかし「14年間のバスケと考えたら、やりきったなと思います」と晴れやかに語る姿からは、バスケットボールから離れる決断への後悔は微塵も感じられなかった。それほどまでに「後悔しないように」と最後の時間を過ごしたのだ。
もう2度と山﨑純がユニフォームを身に纏い、ボールを手にコートを駆け回る姿を見ることがないと思うと、寂しさを覚える人は少なくないはずだ。OBの二ノ宮も「バスケ続けたらいいのになと思いました」と口にしている。バスケ界の変革期「八村世代」のひとりに、山﨑純という熱いハートとスキルを持ったプレーヤーがいたということをここに残しておこう。
最後にベタな質問を投げかけてみた。
――山﨑純にとってバスケットボールとは?
「バスケのない生活をまだ1ヶ月しかしていなくて、そう考えるとバスケって今までの自分の人生そのものだったなっていうのが正直な印象で、中学高校なんて正月も帰れて3日間とか本当に365日バスケのことしか考えていなかったので、もちろん苦しいこともめちゃくちゃあったんですけど、ここまで人生で熱中できるものってあるんだなっていうのがバスケで、本当にバスケに出会えてよかったなっていうのと、そのバスケを辞めるっていう選択をしたので、自分が将来歳をとったときに、14年間やっていたバスケっていうのは本当にいい思い出・いい経験になると思う一方、その時にバスケだけしか語れないような人生だったら、今ここで辞める意味もないので、バスケを超える情熱をかけられるものを見つけられるような人生にこれからしていきたいなと思います。」
山﨑純が新たなステージで最初の一歩を踏み出す日はもうすぐそこまでやってきている。
(ご卒業おめでとうございます。)
(記事:船田千紗)