【野球】入部2日目の顔面骨折から六大学100周年を支える大黒柱へ 慶應野球部を支えた4年間/4年生卒業企画「光るとき」 No.6・勝野淳

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25年度に卒業を迎える4年生を特集する特別企画「光るとき」。第6回は、野球部の主務・勝野淳(経4・慶應)。選手としてではない、裏方としての4年間。それは、チームに貢献する日々であると同時に「自分自身」と深く向き合い、見えない「橋渡し役」として奔走した、知られざる苦闘の連続でもあった。神宮の熱狂、勝利の歓喜、そして敗北の静寂。その全てを、誰よりも近くで見つめ続けた。スポットライトの裏側で、何を思い、何に苦悩し、そして何を得たのか。

 

「人の心を動かせるような大きな舞台に携わりたい」。慶應義塾高校時代から野球部のマネージャーを務めていた勝野は、その純粋な思いを胸に、大学でも同じ道を選んだ。しかし、入部わずか2日目。練習中の硬球が顔面を直撃し、2週間の入院を余儀なくされる。選手とは違う形で、いきなり野球の厳しさを味わうことになったが、この経験が彼の覚悟を鈍らせることはなかった。復帰後は高校時代の主務経験も活かし、地道な仕事に徹すると、その真摯な働きぶりはすぐに先輩たちの目に留まる。「社会人2年目くらいの頼りがいがある」。そんな嬉しい評価を勝ち取るまでに、そう長い時間はかからなかった。

 

1年の終わり、Bチームのキャンプで茨城県神栖へ。コロナ禍の厳しい時期、体調不良者が出た際の部屋割りを考え、雨が降れば朝5時にグラウンドへ向かい練習可否を確認する。そんな泥臭い仕事の積み重ねが、彼のマネージャーとしての原点となった。2年時には、部の財政を預かる会計や、寮の食堂運営、練習試合の審判確保といった、より責任のある仕事を任される。一つ一つの地道な仕事が、慶應野球部という大きな組織を動かす、欠かすことのできない歯車となっていた。高校時代とは異なり、大学の組織は大きく、複雑だ。「好き勝手できない。人と一緒に仕事を進めていく難しさ」。入部当初、勝野が感じたのはそんなもどかしさだった。

 

そのコミュニケーション能力が真に試されたのが、3年時、大きな注目を集めていた清原正吾(令7商卒・慶應)の取材対応だった。「部を守り、選手を守るのがマネージャーの仕事」。その一心で、殺到する取材依頼と向き合った。単なるスケジュール調整ではない。選手の負担を最小限に抑え、野球に集中できる環境をいかに守るか。その裏側で、記者一人ひとりと対話し、信頼関係を築き、過剰な報道を防ぐための見えない防波堤となっていた。その繊細な気配りと冷静な判断力は、まさにチームの「渉外担当」としての真骨頂だったと言えるだろう。

下級生の頃から培ったコミュニケーション哲学は、部の内側にも向けられた。主務就任直後、後輩マネージャー一人ひとりと面談の機会を設けたという。「人によって全然性格も違うし、マネージャーをやるモチベーションも違う」。組織運営の中でそれを深く理解していたからこそ、画一的な指示だけでなく、一対一での血の通った対話を何よりも大切にした。それぞれの立場や思いを尊重し、丁寧に言葉を尽くす。その姿勢は、彼が3年間で培ってきた哲学そのものだった。

 

そして迎えた最終学年。慶大野球部主務に加え、東京六大学野球連盟の当番校主務(連盟チーフ)という大役も担うことになった。リーグ戦の運営資料作成から他大学マネージャーとの連携まで、まさに野球漬けの日々。特に夏は、勝野も「人生22年間で一番忙しい期間だった」と振り返るほど多忙を極めた。オール早慶戦の運営に携わりながら、大学野球日本代表のマネージャーとしても活動。これまで主に関わってきた慶大の選手に加え、全国から集まった選手やスタッフとの調整に追われ、業務の幅も責任も一気に広がった。さらに過密を増したのは移動日程だ。わずか10日間の間に、東京、沖縄、名古屋を行き来。試合準備やチームサポートに奔走しながら、各地で異なる環境に対応し続けた。名古屋では、試合後に向かったコインランドリーが深夜に閉まり、こともあろうに早稲田大学の小宮山悟監督の洗濯物が回ったまま取り出せなくなるという、今だから笑える珍事も経験。そんな予測不能なトラブルさえも、彼は冷静沈着に乗り越え、その一つ一つの経験が、勝野をよりたくましい主務へと成長させていった。

4年生のシーズンは、前年度の悔しさを晴らすべく臨んだものの、チームは苦戦を強いられる。「負けると、チームとしての結束力を保つのは難しい」。勝利という共通の目標が見えにくくなった時、組織は脆くなる。勝野は、主務としてその現実を痛感した。グラウンドで戦う選手たちの苦悩は、そのまま彼自身の苦悩として、その双肩に重くのしかかった。それでも、最後まで主務としてチームを支え続け、連盟チーフとしても100周年という記念すべき年を支え抜いたその働きは、次の100年へと歩みをつなぐ大きな礎となったことだろう。

激動の4年間を経て、勝野は自身の成長を二つの言葉で語る。「いろんな人の立場や思いを考えられるようになった」こと。そして「自分をコントロールできるようになった」ことだ。「自分のことについて詳しくなったかなと思います」。取材の最後に、少しはにかみながらそう語った表情には、4年間の苦闘を乗り越えた確かな自信が満ちていた。主務として、チームという組織を繋ぎ、守り続けた4年間。そこで得た「人を思う力」と「自分を知る力」は、卒業後、どんな道に進もうとも、人生を支える何よりの財産となるに違いない。

(取材、記事:鈴木啓護)

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