【野球】中継ぎ陣を支えたサイドハンド 汚れ役の徹底したマインドセットとは/4年生卒業企画「光るとき」 No.51・木暮瞬哉(野球部)

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25年度に卒業を迎える4年生を特集する特別企画「光るとき」。第51回となる今回は、野球部の木暮瞬哉(法4・小山台)。ピンチの場面での火消し、接戦での回跨ぎ、さらには敗戦処理まで、様々な役割が求められるリリーフピッチャー。そんな中継ぎ陣の中心として腕を振り続けた4年間は、独自のマインドセットで成し得たものだった。

 

その日も、彼はダグアウトで戦況を見つめていた。

 2024年4月29日、東京六大学春季リーグ戦・慶大対法大3回戦。試合は接戦となった。慶大1点リードで迎えた9回表、法大が1死から連続安打で試合を振り出しに戻す。慶大は慌てて先発投手を下げた。 「これは、来るな」――彼はおもむろにブルペンに向かい、投球練習を始めた。

なおも1死一塁。マウンド上の2番手投手の表情は少し不安げだ。次の打者が初球を右中間に運ぶ。1死二、三塁。一打勝ち越しのピンチで慶大監督がベンチを飛び出した。刹那の投手交代である。

指示を受けると、彼は表情を変えずマウンドに向かった。 ルーティーンはシンプルだ。監督からボールを受け取ると、内野陣、捕手と二言三言の確認を交わす。そして、ロジンでならしたボールを握ると、サイドスロー特有の低い軌道から腕を振った。

法大の2人の打者を遊直、遊ゴローー失点が許されない大ピンチを、彼は事もなげに切り抜けた。 延長になっても腕を振り続けた。12回まで3回2/3を無失点。完璧なリリーフだ。その裏、味方のサヨナラ弾で勝利投手となった。当時大学3年目、それが木暮瞬哉(法4・小山台)にとってのリーグ戦初勝利だった。

 

木暮は、いわゆる「野球エリート」ではない。 都立小山台高校時代、甲子園出場経験はない。むしろ、高校で野球を辞めるつもりですらあった。転機は、野球部のマネージャーをしていた先輩からの「慶應でやらないか」という誘いだった。

全国から有望選手が集まる慶大野球部。入部後も、彼が気後れすることはなかった。

「全員がエリートだと思ってたんですけど、実際そうじゃない人も結構いて。ちゃんと取り組めば自分にもチャンスがあるのかなって」

中学時代から試行錯誤を重ねて作り上げたサイドスロー。派手な球速や魔球があるわけではない。それでも、その強いメンタルが彼を神宮のマウンドへと押し上げた。

 

2年生の秋から頭角を現した木暮は、中継ぎ投手として様々な役割を任されるようになった。ピンチ時のワンポイント起用から回跨ぎのロングリリーフ。点差に関わらず、序盤でも終盤でも、監督が頃合いと判断すれば呼ばれる。勝ち星もセーブもつかない場面、敗戦処理での登板もあった。いわゆる「便利屋」であり「汚れ役」だ。3年生のシーズンには、東京六大学リーグ戦に春秋通じて計12試合に登板。4年間で計22試合に出場し、慶應投手陣を支えた。

「3年の頃なんか『あーもうくるくるくるくる』みたいな感じで準備してましたね。慣れですよ」

並の精神力では務まらない。いつ出番が来るかわからない緊張感の中で、彼は独自のマインドセットの術を編み出していた。ブルペンでは、「出番回って来んな!」と気楽に構える。だが、いざマウンドに立てば、応援も、野次も、凄まじいブラスバンドの音も、一切意識に入れなくなる。腹をくくる。驚くほど単純な「割り切り力」だ。

その動じないメンタルの裏には、自他ともに認めるマイペースさがあった。オフの日は自室で「実況パワフルプロ野球」に没頭する。自分から周りに話すタイプではない。それでも、木暮は木暮なりに試合に向けて心と体を整えていた。

マウンドに向かう前、彼なりの心構えがある。

「打たれたからって死ぬわけじゃない、人生終わるわけじゃない。責任感は持っていますけど、背負い込みすぎない。だからこそ、厳しい場面でもビビらずに投げられたのかな」

 

そんな彼にも、終わりはやってくる。4年生の春季リーグ戦、早慶戦1回戦。5点ビハインドの9回、6番手として登板した彼は、アウトを一つも取れずにマウンドを降板。それが、大学生活最後の登板となった。秋は怪我に泣き、神宮へ戻ることは叶わなかった。そして、10年以上続けた野球を引退した。

数字だけを見れば、ほろ苦い幕切れかもしれない。しかし、通算22試合。ピンチの度に腕を振り、チームを支えてきた。その右腕の張りに、嘘はない。やるべきことは誰よりも明確だった。

「僕の場合、結構厳しい場面で(マウンドに)行って、そこ抑えてくるっていうのが役割なので、あんまりそれ以外のことは考えずに、4年の最後のシーズンまでプレーしてましたね」

 

学生生活の全てだった野球。卒業後、ボールを握る機会は減る。それでも、その思いは消えていない。

「いつか、自分を育ててくれた中学時代のチームで、子供たちに野球を教えたい」――何一つ汚れのない、明確で、真っすぐな願いだ。

不確実なリリーフという役割を、最も確実な仕事で全うした4年間。 神宮のマウンドを離れた「慶應のサイドハンド」は、これからもマイペースに、次なる人生のマウンドへ向かっていく。

 

(取材:河合亜采子、記事:竹腰環)

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