【パリ五輪特集】オリンピアン対談 豊田兼×飯村一輝 第1部 

フェンシング

スポーツの祭典、オリンピック。今年8月フランス・パリにて開催された2024年夏季大会に、日本からは400人を超える選手が参加し、そのプレーで多くの人々に感動と勇気を与えた。その中には、慶大在塾生の名前もあった。ケイスポではパリ五輪特集と題し、日本代表として男子400mハードルに出場した豊田兼選手と男子フルーレ個人・団体に出場した飯村一輝選手にロングインタビューを行いました。第1部では、競技を始めてからオリンピックの舞台にたどり着くまでの2人の軌跡を辿りました。

 

プロフィール

豊田兼(とよだけん)東京都出身、桐朋高校卒業。慶應義塾大学環境情報学部・4年。慶應義塾體育會競走部・主将。身長195cmの体格を活かしたダイナミックな走りが持ち味。400m/110mH/400mHの3種目をこなす高いユーティリティー性を持つ。フランス人の父と日本人の母のハーフ。パリ五輪・男子400mH日本代表。大会直前に脚を故障したが、本番は強行出場し、1レースを走り切った。

飯村一輝(いいむらかずき)京都府出身、龍谷大平安高校卒業。慶應義塾大学環境情報学部・3年。慶應義塾體育會フェンシング部所属。身長169cm/体重65kgと小柄な体格ながら、スピードと高い技術を生かした攻撃で相手を翻弄。精神力も強い。パリ五輪ではチームジャパン最年少の20歳ながら男子フルーレ団体・金メダル獲得に大きく貢献。個人戦でも4位入賞を果たした。

 

第1部

Qまず初めに、競技を始めたきっかけは何ですか?

豊田:自分は物心ついた頃から走るのが好きで、“速くなりたい”っていう思いで親に勧められたクラブチームに入部したことが陸上を始めたきっかけです。今のハードルを始めたのは高校の時からですね。それまで一つの競技に絞らず混成で競技をやっていて、その中で自分に一番適性があったのがハードルだったんです。

「物心ついた頃から“速くなりたい”って思いがありました」(豊田・写真右)

飯村:僕は元フェンシング選手である父が指導者をしていて、小学校1年の時に始めることになったんですけど、それ以前からよく練習場とかには連れて行かされていて、まあそれが嫌でした。危なそうだし、しんどそうだし。ただ、当時練習場に自販機があって、そこには僕が大好きな市販の炭酸ジュースが売ってたんですね。「買ってあげるから練習やってみないか」と言われ、それにつられて始めたのがきっかけです。

 

Q自分の競技人生に最も影響を与えた出来事は何ですか?

豊田:2つあります。1つは自分が高3の時です。その年(2020年)はコロナでインターハイが無くなってしまって、ずっと目標にしていた大会が中止になって「何を目標に陸上すればいいんだ」と迷走した時期がありました。そうしたら8月にあったセイコーゴールデングランプリ(※①)という試合で、“ドリームリレー”という形で1人出場させてもらえる高校生の枠に選ばれたんです。そこで初めて国内外のトップ選手が集まる試合で走らせてもらって、「自分もこの世界で戦ってきたい」って強く思い、大学でも陸上を続けることを決意したのを覚えてます。

※①毎年日本で開催される世界陸連(ワールドアスレチック)が主催する陸上競技の国際大会。世界のトップアスリートが参加し、短距離から長距離、跳躍、投擲などさまざまな種目が行われる。

豊田:もう1つも高校の時で、その時の恩師に貰った言葉ですね。当時の高校の顧問の先生に「これから先もっと記録は伸びると思う。その時が来るのはお前が大学生でもなく、さらにその先の社会人になってから。だからこのまま続けたほうがいい」という言葉をかけられたんです。将来的に陸上を続けていく上でこれが一番自信に繋がりました。

 

飯村:僕は中学3年生の時に出場したワールドカップです。初めて年齢制限のない区分のない大会に出たんですけど、そこでなぜか決勝まで残っちゃったんですよね。まだ15歳だったので、「入っちゃった」って当時は思いました。その試合がきっかけでシニアの大会に出始めて、大会中に太田雄貴さん(※➁)にお会いした時も「一輝はオリンピック行くよ」みたいに言われて。それが嬉しい反面、「”金獲れるかはわからないけど”、オリンピックはいけるよ」みたいな裏の意味もくみ取れたような気がして少しプレッシャーにもなり始めたんですよね。重圧を背負いつつ戦う、この大会は僕にフェンシングをする意味を見つけてくれたのかなと思っています。

※➁フェンシング男子フルーレ元日本代表。北京オリンピックでは男子フルーレ個人にて日本勢史上初となる銀メダルを獲得。続くロンドンオリンピックでも男子フルーレ団体・銀メダル獲得に大きく貢献した。現在は国際フェンシング連盟理事を務める。

「重圧が自分にフェンシングをする意味を見出してくれるんです」(飯村・写真左)

Qオリンピックを本格的に目指し始めたのはいつ頃ですか?

豊田:自分の場合は、オリンピックにいつか出たいという夢は抱きつつも、本格的に目指し始めたのは大学入ってからです。4年後にパリでやることは分かっていたので、コーチと話し合って4年計画を立てて、1からコツコツ練習を積んできました。

飯村:僕は小学校6年生の時に初めて出場した海外試合ですね。その試合で海外選手を倒して優勝した経験から世界で戦うことの楽しさを実感して、そこから徐々にオリンピックを目指し始めました。

――太田選手の存在も大きかったのでしょうか?

飯村:大きかったですね。太田さんとは元々小さい頃から親交があって(※③)、北京・ロンドンと太田さんの活躍もテレビで見ていました。そのお陰でオリンピックという舞台を身近に感じるようになりました。

※③飯村の父はかつて太田のコーチも担当していた。

 

Qオリンピックを目指す上で、自身が最も力を入れてきた事は何ですか?

豊田:自分がやっている種目が400mハードルっていう無酸素(運動)・有酸素(運動)どちらも味わうきつい競技なので、日々のトレーニングから身体を追い込むことを意識してました。週に何度か吐くこともあったんですけど、そういった練習を4年間しっかり積んできたからこそ成果が出たのかなと思っています。

「日々の練習から身体を追い込むことを4年間ずっと意識してました」(豊田)

飯村:僕はメンタルトレーニングです。始めたきっかけはオリンピックシーズン(2023年5月~)の大事な初戦の大会で予選落ちしたことですね。そこで自分のメンタルの弱さを痛感しました。目の前にある”この試合”、”この1点”に集中する冷静さを持って戦えるようになったのはトレーニングのお陰だと思います。

飯村:それ以前の話をすると、イメージしたことを具現化する練習を中高の頃からしていました。言われたアドバイスや描いたイメージを的確に再現するってことです。これとメンタルトレーニングを掛け合わせたことで、冷静さとイメージの具現化その両方を伸ばすことができて、それが大学に入ってからの成績に繋がったのかなと思います。

 

Qパリ五輪の出場が決まった瞬間の率直な感情は?

豊田:自分の場合は「ホッとした」というのが正直な感想です。標準記録を突破した上で日本選手権で優勝することが内定条件だったので、それをまずは達成できたというのが嬉しかったです。自分本当は2種目で出場を目指していて、翌日の110mHにも出たんですけど、そのレースで怪我をしてしまって…。何て言うんでしょう、”安堵の後すぐに絶望が訪れた”というか、あまり喜ぶ間もなかったですね。

飯村:僕は公式の発表があったのが今年の3月で、発表された時は試合中だったのであまりその大々的に喜ぶことはできなかったんですけど、個人戦に出れるかどうかわからない状態でオリンピックシーズンをスタートしたので、切符を掴んだ喜びや安心感というのはかなりありました。試合が終わった後に友達や家族から「おめでとう!」という連絡が来たので、それは今でも鮮明に覚えています。

「切符を掴んだ喜びや安心感というのはかなりありました」(飯村・写真右)

Q当初のオリンピックの目標は?

豊田:1番に考えていたことは400mハードルで決勝に進出することです。その上で、現在の日本記録である為末大さんの“47秒89”というタイムは破らなきゃいけないと思ってました。

飯村:男子フルーレ個人・団体でそれぞれ金メダルを取ることでした。

 

Q豊田選手のお父さんはフランス人ということで、第2の故郷とも言えるフランスでオリンピックに出場するとなった時の気持ちは?

豊田:大学4年の時に自分に所縁のあるパリでオリンピックがあるということを知った時は、自ずと少し運命じみたものを感じました。この大会がモチベーションになったからこそ4年間頑張り続けることが出来たと思います。大会前には一度父の実家に帰省して、そこで気合を入れ直しました。

 

Qオリンピックの会場に足を踏み入れた際に抱いた率直な感想は?

豊田:陸上はスタッド・ド・フランスという国内で一番大きなスタジアムで試合があったんですけど、あれほど大観衆で埋め尽くされた会場と周りに外国人の選手しかいないトラック、そういった環境で走った経験はあまりしてこなかったので、「これがオリンピックっていう最高峰の舞台か」と驚かされたことは覚えてます。

飯村:入場した当初は複雑な気持ちでしたね。フェンシングが行われたグランパレ(※④)という会場はすごく歴史のある建物で、とにかく広くて、競技人生過去一のクオリティ/過去一の観客数でした。そんな中で試合するピスト(※⑤)が4つしかないというのはまず考えただけで震えましたし緊張もしていたんですが、そこで試合ができることへの高揚感もありました。

※④フランス・パリ市内にある大展覧会場・美術館。1900年のパリ万国博覧会のために建てられ、2024年パリオリンピックではフェンシングとテコンドーの会場として使用された。

※⑤フェンシングの試合を行う細長い台。幅・2m、長さ14m程度。対戦する2人の選手はピスト中央に4mの距離をおいて構え(アンガルド)の姿勢から試合を開始する。

「緊張もしていたんですが、そこで試合ができることへの高揚感もありました」(写真・グランパレ)

【第1部・完】

 

続く第2部では、本番・大会期間中での出来事、オリンピックの感想、そして今後の目標について取り上げます。ぜひお楽しみに!

(取材:竹腰環、岡澤侑祐・編集:大塚隆平、河合亜采子、キムムンギョン、野村康介、小田切咲彩)

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