【競走】「最後まで悔い残すことなく選手を支えたい」上原佑介×羅ヘス(前編)箱根駅伝予選会直前特集③

競走

箱根駅伝予選会まであと8日!慶スポでは本番を直前に控えた選手方・スタッフにインタビューを行いました。特集3日目の本日は、一人は駅伝主務、一人はトレーナーとして長距離ブロックを支えてきたサポートスタッフの2人。慶大競走部に入ったきっかけや、現職に就いた経緯、彼等だからこそ感じる長距離ブロックの魅力について、2部構成でお送りします。これを読んで是非当日も声援を送りましょう!

プロフィール

(写真左)上原佑介(法4・成蹊) サポートスタッフ/駅伝主務

(写真右)羅ヘス(文4・盆唐大眞) サポートスタッフ/トレーナー

――まずは、お互いの他己紹介をお願いします!

上原主務➡羅トレーナー

「担当選手への知見もすごく深いんです」(上原)

ヘスなんですけど、2年生からの途中入部だったんです。それに加えて陸上未経験で留学生という難しい立場で入ってきてくれたことがまず素直にすごいなって思います。普段はトレーナーとして選手に接する中で、愛嬌もいいですし会話も弾んでてコミュニケーション取るのがすごく上手です。担当選手への知見もすごく深くて、そう言った部分は自分も尊敬してますね。

羅トレーナー➡上原主務

「仕事できる人なのかと(笑)」(ヘス)

上原は、最初は選手として入部して2年の冬からマネージャーに転職したんです。マネージャーになってすぐは「上原シゴ出来だね」っていう噂を聞いて理性的で仕事できる人なのかと思っていたんですけど(笑)、合宿とか一緒に行ってみて実はすごく情に厚くて熱い心を持ってる一面もある人だなって感じます。

 

――お二人が競走部に入部された経緯は?

上原:経緯としては、小学校4年生から陸上、特に長距離種目をずっとやってきました。中学も関東大会行ったりだとか都大会入賞とかモチベーション高くやっていて。ただ、高校に入って膝を手術して、あとはコロナ禍で最後のインターハイがなくなってしまって不完全燃焼で終わってしまったんです。だから大学に入っても長距離種目、箱根駅伝を目指して完全燃焼したいなと思って入部しました。

「箱根駅伝を目指して完全燃焼したいなと」(上原)

 :私はまず「なぜ日本留学を決めたか」というところから説明すると、もともとアニメが好きで字幕なしで観たいなという気持ちで日本語の勉強を始めてたんですけど結構向いてるかもと思って、もうその勢いでじゃあ日本留学も行こうかみたいな感じでいくつか日本の大学を受けて、ご縁があって慶応に入学することになりました。

「アニメが好きで字幕なしで観たいなという気持ちで」(ヘス)

――先ほど上原主務の話にあった通り、ヘスさんが競走部に入部されたのは2年生からだったんですね

「日本でしか経験できないことがしたくて」(ヘス)

1年生の時はコロナ禍でまだ入国できなくて、2年生の春からになったんです。入国前に日本で何しようかと考えていた時に、周りの留学生はサークルとかバイトとか頑張っていたんですけど、私は日本でしか経験できないことがしたくて、それが「体育会」や「部活動」だったんです。韓国にはない文化なので。

――上原主務は、入部当初は選手として活動されていました。選手からマネージャーに転向するまでの経緯は?

まず、マネージャーに転向したのは2年の冬から3年の春くらいです。転向したのは大きく2つの理由があって、まず2年の春に人生二回目の膝の手術をして、その後の入院もあったのでなかなか走れなかったんです。夏合宿もその影響で思い通りに走れなくて。実際に結果も振るわなかったのも1つあると思います。

「保科ヘッドコーチに適性を見抜いていただいて」(上原)

また、保科ヘッドコーチが長い目で見て、僕らが4年生になった時の駅伝主務だったりマネージャーのサポート体制を考えた時に、このままだとマネージャー適正者がいないのではないかという考えがあったらしくて。そこで僕の人間性だとか適性を見抜いていただいて、駅伝主務をやってくれないかと話をしてくれたんです。その2つの要因がサポートチームに入った経緯になります。

――膝の怪我と向き合われてきた競技人生、怪我に苦しんでいた当時はどういった心境でしたか?

まず僕自身、入部当初の同期の中でもタイムも速い方じゃなかったので、焦りがありました。その焦りから、手術からは本来であれば6ヶ月とか半年かけて復帰するんですが、1ヶ月後とかに走り始めてしまっていたんです。今冷静になって振り返ってみると、「リハビリをやっていけばよかったな」と思いつつも、「当時の自分はそれでは納得できないよな」っていう、あの時期の葛藤は今でも覚えてます。今はランナーであることへの未練はあんまりありません。ただ、心の奥底では「あの時怪我せずに走れてたら」とか「練習でできたことを本番出せていたら」とか考えることはありますね。

「あの時期の葛藤は今でも覚えてます」(上原)

――実際にマネージャーを務められて、あの時の決断をどのように思われますか?

当時は「必ずやれ」とかではなくて、あくまで(サポートチームに回るかどうかの判断は)任意って形だったんですけど、選手としての結果がどうであれ僕が適任だからやってほしいとのことだったので、結果的にはやることになっていたと思います。自分的にはマネージャーになってよかったのかなと思っています。

――サポートスタッフの仕事をする上で、それぞれどういったところが1番大変でしたか?

上原:駅伝主務は選手と監督/コーチ陣との中継点みたいな立ち位置なんですけど、選手から上がってくる意見と、監督やコーチから降りてくる意見に相違があるときに、仲介して折衷案を出さなければならないところが難しいと感じました。双方への伝え方が言葉1つで変わってしまうこともあるので、板挟みになって大変だなって思ったことは多々ありましたね。

:私はトレーナーという立場で、やっぱ陸上って体が財産なスポーツなので、自分の体をなんか信頼して任せられるようなトレーナーになるのが最初はすごく大変でした。私が選手だったとして、外国人のトレーナーに自分の体を安心して任せられるかと考えたら、やっぱちょっと不安なところもあると思ってて。そういった信頼を勝ち取ることが最初は結構苦戦しましたね。選手のみんなのことをしっかり理解できていなかったので、それぞれの選手にどういう声かけをすればいいのかとか、考えるのが特に難しかったです。今はちょっとわかってきたのかな…って感じで頑張ってます(笑)

――信頼関係を築く上で大切にされていたことはありましたか?

私が意識したのは、選手が何をしたら嬉しいのか、大変なのかを自分のことのように考えるようにすることです。それを選手とのコミュニケーションを通じて話したりして、「この人私のこと結構考えてくれてるな」と選手に感じてもらえるのを意識して頑張ってきました。

「選手たちの気持ちを自分のことのように考えていました」(ヘス)

――その一方で、やりがいを感じたり思い出に残る瞬間は何かありましたか?

上原:やっぱり何よりも、選手が結果を出してくれた時が個人としてもチームとしても嬉しいです。例えば、今年の関東インカレとか日本インカレで安田と鈴木がしっかり入賞とか記録を出してくれた時、その時は久しぶりに心がブルっと震えました。

「その時は、久しぶりに心がブルっと震えました」(上原)

:やっぱ結果を出してくれた時が一番なんですけど、その他にも普段の「ありがとうございます」とか、「ヘスさんのケアのお陰でいい結果出ました」とか、そういう言葉をかけてもらう時はすごくやりがいを感じたりします。他にも、今年で言ったら、さっき上原も言ってくれた鈴木が関東インカレで表彰台に立って、メダルをその首にかけてもらった時が感動した瞬間というか、やりがいを感じましたね。

「関東インカレで彼にメダルを首にかけてもらった時が」(ヘス)

――お二人にとって、サポートスタッフを含めて今の慶應駅伝チームの皆さんはどのような存在ですか?

上原:今の駅伝チームは、箱根駅伝18位という目標達成に向けて、(サポートチームは)自分たち自身も含めて全員が互いに欠かせない存在だと思っています。やっぱり(駅伝では)選手の走力はもちろん必要ですが、サポートチームのメンタルケアや生活面でのサポート、雰囲気作りなど走力に直接関係しない部分もとても大事になると思っています。それは僕自身が選手の時もそう感じていたので。

:私も(上原と)同じで部員みんなが大切な存在だと思っています。私が初めて長距離と関わったのが去年の夏合宿だったんですが、そこで選手の熱量はもちろんなんですが、それをサポートする長距離マネージャーのみんなの努力を間近で感じて、「すごいな!」と。その頃から尊敬する心を持つようになりました。

サポートスタッフの皆さん(写真は紋別合宿にて)

最後までお読みいただきありがとうございます。後編記事では2人の予選会にかける意気込みなどを記載しております。ぜひそちらもご一読下さい。

(取材:竹腰環、編集:小澤理太)

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