彼が出走できるか否か――それは最後までチームの懸念材料だった。レース中盤まで激走を見せチームをけん引していたエース・安田陸人(商4・開成)は、アクシデントに見舞われて失速、そして、苦渋の末の途中棄権。チームを箱根に導くことは叶わなかった。しかし、それは彼にとって単に絶望をもたらしただけではない。満身創痍の直前期、手負い状態のエースを予選会出走へと駆り立てた“ある思い”、レース中に見えていた景色、そして駅伝主将としての帰還。
箱根駅伝予選会の激闘を部員たちの証言をもとに振り返る「もう一つの箱根駅伝予選会」(全3弾)。第2弾では、誰よりも陸上に熱い男が「あの日」の記憶を振り返る。
「途中棄権という形になってしまいました。本当に申し訳ありませんでした」――

そこにいた全員が固唾を呑んで聞いていた
2年目はエントリーに入るも2週間前のけがにより出走は叶わず、去年はエントリーも果たせず。「3度目の正直」になるはずだった、そうならなければいけなかった。
4年生であり副将の立場を務める安田は、チームの主力として後輩たちを先頭で引っ張っていくと思われたし、10000m30分切りのチーム随一の実績はその期待を力強く裏付けるものだった。
予選会前に行ったインタビューで掲げた目標は「日本人トップ」。
しかし、ゴール後に行われた結果報告会で私たちが見たのは、松葉づえをつき、無念に涙しながら謝る彼の姿であった。理想の走りとはほど遠い、棄権という現実。その間にどのような葛藤があったのか。
右足の脛骨に痛みが発生したのは、10月5日に行われた日体大記録会を終えた夜であった。過去にも左足の脛骨を痛めた経験があるが、今度は右足にきてしまった。
予選会まで残り2週間での、主力のアクシデント。こうなると、オーダーは当日の朝までわからない。コンディションに不安の残る安田の回復に賭けるか、他の選手に託すか。
一刻も早く待ち望まれる安田の復活だが、コンディションは日によってまちまち。ほとんど毎日治療院へ通い、できることはすべてしたものの、期待する状態にはならなかった。
しかし、本人の気持ちはあくまで前を向いていた。
「痛めた時はマジかっていう感じだったんですけど、この程度の痛みなら、今まで積み重ねてきた練習があるので、最後気持ちで何とかいけるんじゃないか、21キロマラソンだったら走り切れるんじゃないかと思っていました。そこで燃え尽きるとか、マイナスな気持ちになるというのはなかったですね」

「気持ちで何とかなるんじゃないかって…」(安田)
例年、3日前には当日出走するメンバーがコーチから言い渡される。しかし、今年は最後の一枠が決まらない。候補は、安田と補欠の稲生健人(経3・慶應)、村松駿平(総1・法政二)。
重い決断の期限は、前日金曜日の夜だった。
心の中では、答えは既に決まっていたのかもしれない。
「金曜日(1日前)に気持ちを固めました。保科コーチからも『行けるのか』と言われて、『行けます』と返事をして出走が決まったという感じです」
それは、痛みを抱えながら走るということの大きなリスク、そして補欠に回る2人の思いまで背負うということを意味した。
「今年も走れないとなると、本当にこのままでいいのかという気持ちがあって。けがをして走らない期間があるときに、自分の陸上に対する情熱が途絶えてしまわないかという気持ちがあって、どんな結果になろうとも自分が後悔しない選択をしようと考えたとき、自分がスタートラインに立たないと、来年以降また同じようになってしまうんじゃないかと思いました」
過去2大会、安田はけがにより出走が叶っていない。
「箱根の借りは、箱根で返す」――箱根本選常連校の選手たちがよく口にする言葉だ。
たとえ箱根のその路が遠いとしても、遠いからこそ、懸ける思いは大きい。
夢にまでみた場所へつながる舞台に立つことすら許されず、自分の代わりに走る他の選手を見守ることしかできない無力感。
高いものに手を伸ばし続けるのは、もどかしくて、苦しい。走り出そうにも痛みに阻まれ結果を出せない日々、やり場のない悔しさを飲み込んで今日まで走ってこれたのは、他でもない「箱根駅伝」への情熱があったから。

出走が叶わなかった去年の予選会。結果は惨敗だった。
一方で、自分が出走することによって走れない選手が出る。保科コーチから、「最善の準備をしておけ」「自分の役割を全うしろ」と言われていたという補欠の2人だ。特に村松は、1年生ながらしっかり与えられたメニューをこなすなど、順調に練習を積んでいた。
その2人には、前泊したホテルで直接思いを伝えた。当日の朝までどうなるかわからないから、走れる準備をしておいてほしいということ。そして、「走るからには絶対2人よりも速く走るし、そこは任せてくれ」という決意。2人の納得を得た。
このときの様子について、主将である東叶夢(環4・出水中央)はこう振り返る。
「村松は1年生ですけど、練習の出来も良くて、本当は走りたかったと思います。それでも、悔しさを表に出すというより、明るく振る舞って、調整もきちんとやっていて。正直、すごく偉いなと思いました」
足の痛みというハンデはある。でも、積み重ねてきた練習と、走りきることへの情熱があれば。
「安田なら、いける」――エースの出走は、痛みがあっても揺るがない彼の自信と、周りの部員からの信頼によって決まった。
ついに迎えた当日。メンバーに変更はなし。朝練でジョギングをし、試合会場でのアップも問題なかった。
当日の目標は、【個人順位100番以内に常にいること】。
「僕と鈴木(太陽=環4・宇都宮)とあともう1人くらいが100番以内にいればいいかなと。当日はチーム内でもそういった話をしていましたね」
当初の目標よりは下げざるを得なかったが、チームを常に引っ張ろうとする強い意識は消えていないことがわかる。
10月18日8時30分――ついに号砲が鳴り響いた。レースは、駐屯地を周回するところからスタートする。安田は序盤から1キロ3分のラップタイムを刻み、10キロの通過はチーム2番目の30分7秒。全体でも日本人第2集団につけ、個人70番~80番手につけていた。

「すごくいい入りができた」(安田)
「足の痛みを考えると最初から飛ばしたくはなかったので、すごくいい入りでした。そこから流れに乗ってペースを淡々と刻めていたので、自分の思い描いていたレース展開になっていました。先頭からもそこまで離れていなかったので、ここから徐々に上げていけばいいぞという感じでした」
この間も常に右足は痛んだが、これは想定の範囲内。
まさか棄権はしないだろう…そう思っていた矢先、悲劇は12キロ地点から始まった。
「12キロ付近に少し上りがあって、そこから徐々に抜かれ始めて少し焦り始めて。踏ん張りどころできついなと思ったタイミングで、いつもだったらお尻で踏ん張れるんですけど、そこにさらにグッと痺れがきて異変を自覚しました。そこから動きに左右差が出て、ガクッ・ガクッっと体が傾き始めました」
昭和記念公園に入る手前にある13キロ地点では、気づけば180番台に。
「あと8キロ、本当にいけるのか」――「棄権」という選択が、一気に現実のものとして頭をよぎる。そして、とっさに自分が主力として立てなくなったチームのことを考えた。
この時の慶大の状況は、10キロ通過の時点で鈴木がトップ。その4秒差の2番手に安田は位置していた。そんなタイム稼ぎ頭が突如ブレーキに見舞われている。
「早く抜かしてくれないと困るぞ」――すぐに東をはじめとする主力陣が抜かしてくれる。そう思ったが、失速した安田を最初に抜かしたのは、意外にも2年の田口涼太(政2・慶應志木)だった。
「田口は4、5番で来ると思っていたんですけど、最初に抜かされたので、いい意味で裏切ってくれました」
しかし、それは同時に上級生の遅れを意味する。
「最初田口に抜かされたとき『安田さん』と声を掛けられたんですけど、最初に思ったのは『(2番手となるのが)この位置か』ということでした」
「ここで自分が抜けたら」――募る焦りと裏腹に、悲鳴をあげる右足。
「普段だったら、『まだいけるだろ』『頑張れよ』と言いますが、あの時はさすがに痛そうすぎて、そういう言葉は出なかったですね」(東)
15キロ手前で追い越した東は言う。
公園内に入っても、辛うじてジョギングのペースで走ることができていた。待っていたコーチには、「無理するな」と言われたが、「何とかあと数キロ」その思いだけで足を動かし続けた。

「安田はもう余裕がなくて、目は合わなかった」(東)
しかし16.4キロ地点、棄権。「もうやめなさい」保科コーチの声で、限界まで走り続けた安田の挑戦は道半ばで途切れた。
箱根の夢、自分のプライド、副将としての覚悟。手負いの足にすべて乗せて走るには、あまりにも重すぎたのかもしれない。キロ3分を刻んでいたラップは、最後には1キロあたり15分、歩くスピードにまで落ちていた。
受け入れがたい現実にようやく実感がわいてきたのは、医務車に運ばれている最中。車の中から、沿道で自分を信じて待ってくれていた仲間たちと目が合った。
「同期のみんなが『残り1キロで待ってるぞ』と言っていてくれていたので。本当だったらトップでガッツポーズをしながらゴールに飛び込みたかったんですけど、それができず応援してくれていた人に申し訳ないという気持ちがこみ上げました」
チームで立てた目標順位は18位。
「『まさか30位とるとは』とも言えないし、『本当に30位以上とれなかったのか』と言われるとそうでもないというのが現実です」

「これが現実」(安田)
目標を達成するには、4年生の覚醒が不可欠であった。しかし、今年は故障者が続出。Aチームは人数も少なく、とても「万全な状態」とは言えなかった。
1年間、チームの先頭で安田とともにチームを引っ張ってきた東は当時のチーム状況をこう振り返る。
「手負い状態の安田が、『今回はやめておこう』と判断できるような状況ではなかった、というのがやっぱり大前提としてあったと思います。そこは個人というより、チーム全体の問題だったかな、と。20位(以上を)狙うには安田が大きく跳ねないといけない状況だったので。最初に『ごめん』と言われましたけど、『いや、こっちもごめん』みたいな感じでした」(東)
普段、チームを不安にさせることを言わないという安田だが、東はその状態を見て棄権の可能性もあることを悟ったという。保科コーチからも、「安田はまだ来年もあるし、ここで無理をして走って、1年を棒に振るのはもったいない」という話があった。
「自分もそこは同じで、それだったら確実に走れる選手が走った方が良いという判断になるよね、ということを(安田と)話していました。何度も『無理だけはするな』と伝えていました」(東)
しかし、「いける」と思ったから走った。誰よりもその走りに期待をかけていたのは、安田自身であったはずだ。その決断に後悔はない。
安田の目は、すでに未来を見据えている。その視線の先にあるのは、率いる慶大のメンバーとともに、自信に満ち溢れた表情で立川駐屯地のスタートラインに立っている、自らの姿。
「自分が納得する形でスタートラインに立てたことで、自分は戦えた。だけど、ダメだった。でも、来年にまだチャンスがあるから、ここでくよくよしても仕方がない。もう1回自分が先頭に立たないと、チームが始まらないと思いました。それに、沿道からの声援を聞いて『これを求めていた、ここで活躍するために陸上をやってきたんだ』と再認識できました。絶対に来年、もう1度この場所に立つ」

「3度嫌われても」(安田)
保科コーチから「泣くともっとダサいから泣くな」と言われたけれど、抑えきれず溢れた悔し涙。しかし、その必死に紡がれた言葉からにじみ出る決意は力強かった。
「この3度の失敗を踏まえ、来年は必ず、ここで勝利の言葉を述べたいと思います。3度予選会に嫌われてもまだまだ諦める気はありません」
数々の辛酸を舐めた主将が率いる2026年度長距離ブロック。
もう、謝る言葉を言うことも、聞くこともないように。
「安田の激走」最後のピースを待っている。4度目の、正直。

(記事:片山春佳、取材:吾妻志穂、片山春佳、竹腰環、中原亜季帆、野村康介、森田紗羽)


