25年度に卒業を迎える4年生を特集する特別企画「光るとき」。
第2回となる今回は、慶大スケート部ホッケー部門が誇る屈強のポイントゲッター・勝見斗軌(法4・Ontario Hockey Academy)。「氷上の格闘技」の名を体現するような彼の攻撃が仲間を、観客を、何度も沸せた。
わずか中学生で、「強くなりたい」その一心でアイスホッケーを国技とする強豪国・カナダへ飛び込むことを決意した。特に高校時はアイスホッケーと真剣に向き合う毎日を送るが、競技には区切りをつけるつもりで大学受験のため帰国。そんな彼が慶大アイスホッケーを通して4年間で得たもの。
きっかけは、親に連れられてスケート場に行ったこと。気づけば1年間毎週通っていた。競技として取り組むことを決めた際、スケート競技を一通り見たが、その「荒々しさ」にハマり、アイスホッケーを選んだ。

小学生時代には、世界レベルの大会に参加。その実力に、開催国であるカナダの学校から声がかかった。弱冠12歳で親元を離れ、言語をはじめとする環境がすべて異なる遠い地で生活するという決断。しかし、迷いは一切なかった。何よりも「強くなりたい」という思いが彼を突き動かしていた。そして、それを支えていたのが彼の「挑戦心」。これは父から授かったものだ。
「好きなことをなんでもやらせてみて、選んでほしいという感じだったので、それが染みついて、今の自分もそのスタンスになっているのではないかと思います」
中学生時代は、ホームステイで満足な食事が出ず、自動翻訳も頼りにならない中、何とか授業を乗り越える日々。課題を感じ、高校は英語圏で全寮制の場所を選んだ。
高校ではカナダ内トップレベルのリーグに所属することになり、ここで初めて「試合に出られない時期」を体験することになる。
「週15回以上は自主練と氷上練習をして、すごくストイックにやっていました。目標を高くもって、そこに対して努力し続けるということは、試合に出られなかったからこそ学べたことだと思います。週ごとに成長を確認することに楽しさを感じていた一方で、毎週末の試合の帰りのバスでは、悔しさでブランケットをかぶってめちゃくちゃ泣いていて、『もうやめたいな』と思っていました」
日本への帰国は、「カナダでプロになる」という夢の挫折だった。
「高校ですごくストイックにできた分、もうやりきったという気持ちが大きかったです」
愛知県で同じチームだったことのある、前年度主将・振津青瑚(令7卒・埼玉栄)がいるという理由で、大学は慶大を選んだ。
部に入るも、競技への熱はすぐには取り戻せなかった。
「最初の合宿がきつすぎて、はじめは絶対に半年で辞めてやると思っていました(笑)」

しかし、学年が上がるにつれ自然と「部を引っ張る」という意識が高まった。特に印象に残っているのは、4年生に上がって最初の練習試合。4年生が得点につなげられず負けた試合だった。「試合終了後、控室で山中武司コーチから、『お前自覚足りてないんじゃないか』という話をされて、4年生は結果を残す立場だと再認識できました」
もう一つ、「辞められなかった」理由がある。早慶戦だ。
注目度が高く、ゴールを決めた瞬間は地鳴りのような歓声がこだまする。自身の大切にする「楽しさ」を多くの観客と共有することのできる場であり、OBの手厚い支援を感じる機会でもある。
この「早慶戦での勝利」という目標にチーム全員が向かう、その感覚はそれまでにはないものだった。
「高校までは、個人として名を売って、NHL(National Hockey League)や強い大学に行くことを意識していたのですが、慶應では個人というより『組織の強さ』を学ぶことができたと思います」

大学在学中に母が他界。父と同様、息子に会えなくなる寂しさよりも、自分の挑戦を信じて背中を押してくれた。苦しかった高校時代を支えたのは、試合道具に書かれた母の丸文字だった。
「自分の人生と向き合った時、やっぱり人生は結局楽しかったかどうかだと思ったんです。その意味で、楽しみきりたい。やりたいと思ったことには何でも挑戦するし、そのためだったらどこへでも行きたい。それが『自慢の息子になる』ということだと思います」
アイスホッケーは多くの困難を与えたが、それ以上の楽しさをくれた。だからこそ、完全に離れることはできなかった。彼にとってアイスホッケーはアイデンティティになっている。今後は、就職先のチームで競技を続ける予定だ。

挫折から始まった慶應でのアイスホッケー生活。
しかし、チーム目標として「UNITE」-団結を掲げて挑んだラストイヤー、その集大成である早慶戦。意地のゴールを決め、観客から湧き上がる割れんばかりの歓声とチームメイトとの抱擁の中心にいた彼は、間違いなく、彼なりの「光」を持っていた。

(取材・記事 片山春佳)

