第33回オリンピック競技大会およびパラリンピック競技大会に出場した、塾生、塾員、及び教員計9名の健闘をたたえる塾長招待会が三田キャンパスにて開催された。開会に際して、應援指導部の演奏する『若き血』とともに出場選手・監督が入場。伊藤公平塾長のご挨拶に続いて、体育会の塾生による選手・監督インタビューが行われた。そして、最後は来場者全員で『若き血』を斉唱し、パリ2024オリンピック・パラリンピック 出場選手塾長招待会を締め括った。
*掲載が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。
オリンピック出場選手・監督
氏名(所属) | 競技名 | 種目名/役職 | 結果 |
豊田 兼 選手(環4・桐朋) | 陸上競技 | 男子400mハードル | 予選5組6着敗者復活戦棄権 |
梅沢 和佳奈 選手(R3総卒) | 陸上競技 | 女子5000m | 予選2組19着 |
尾﨑 野乃香 選手(環4・成城学園) | レスリング | 女子フリースタイル68kg級 | 銅メダル |
飯村 一輝 選手(総3・龍谷大平安) | フェンシング | 男子フルーレ団体 男子フルーレ個人 | 金メダル 4位入賞 |
宮脇 花綸 選手(R1経卒) | フェンシング | 女子フルーレ団体 | 銅メダル |
原 わか花 選手(R4卒) | 7人制ラグビー | ー | 9位 |
水鳥 寿思 監督(総合政策学部准教授) | 体操 | 体操競技(男子)監督 | 団体金メダルほか |
パラリンピック出場選手・監督
氏名(所属) | 競技名 | 種目名/役職名 | 結果 |
髙桑 早生選手(H27卒) | 陸上競技 | 女子走り幅跳び(T64クラス)
女子100m(T64クラス) | 5位入賞 14位 |
千田 健太 監督(総合政策学部専任講師) | 車いすフェンシング | 車椅子フェンシング監督 | ー |
【塾長挨拶】
伊藤 公平 塾長
本日はご多忙中にも関わらず、パリ2024オリンピック・パラリンピック出場選手塾長招待会にお集まりいただき、誠にありがとうございます。今回のオリンピックには塾生3名、そして塾員3名、パラリンピックには塾員1名の計7名が選手として出場し、教員2名が監督として出場しました。これで塾からのオリンピック出場選手は、述べ数で154名になりました。また今回のパリ大会では、フェンシングの飯村一輝君(総3・龍谷大平安)が男子フルーレ団体で金メダルを、同じくフェンシングの宮脇花綸君(R1総卒)が女子フルーレ団体で銅メダル、レスリングの尾﨑野乃香(環4・成城学園)が女子68kg級で銅メダルを獲得しました。塾生としての金メダルは、1956年にメルボルンオリンピックで小野喬さん(鉄棒)が体操で獲得して以来の快挙であります。宮脇さんと尾﨑さんは、塾生・塾員を通じて初の女性メダリストとなりました。加えて尾﨑さんのメダルは、レスリング部としては1952年のヘルシンキで日本が戦後オリンピックに復帰して最初のメダリストである北野祐秀さん(フリースタイル52kg級)以来ということになります。またこの4年間、例えばコロナ禍での練習を乗り越えてきましたし、ウクライナ情勢やガザ情勢など世界の情勢が不安定な中、政治的な不安定の中、様々な不安を抱えながらオリンピアンを目指して選手として練習をしてきたというのは、平和の時代が当たり前だった時、またコロナのようなものがなかった時と比べて大変な気持ちの整理が必要だったのではないかと思います。その点に関しても、塾生・塾員としてこのように活躍していただいたことに心から敬意を表したいと思います。
慶應義塾の伝統に基づき、皆さんを迎えるにあたって日本国旗は掲揚しておりません。皆さんの胸には日本国旗がありますけれども、慶應義塾の式典では国旗掲揚は行わない。それはあくまでも国の一人としてではなく独立自尊の一人として、一人一人が独立して、そしてそれが社会の結合・発展に繋がっていくという考え方のもとで、このように塾旗を掲げて皆さんをお迎えするようにしております。慶應義塾の精神という意味で、もちろん皆さんが日本を代表して活躍されたことは嬉しい限りですけれども、それと同時に一人一人の努力がオリンピック出場・パラリンピック出場に繋がった。またそれがスポーツだけではなく、「文武双全」という、学業もしっかりと修めながらオリンピック・パラリンピックで活躍いただいたということが何よりもの誇りであります。これだけの活躍が、皆さんにとって想像を絶する好影響を塾生・塾員に与えているということをまず私からご紹介して、皆さんの活躍をたたえたいというふうに思っております。このような中において、塾長招待会を開催できましたことを心より嬉しく思います。3年前の塾長招待会もここで開催されましたが、まだコロナの色が残る時代でありました。今回このように完全にオープンな形で、皆で塾歌を大声で歌いながら皆さんを迎えられたことを心より嬉しく思います。これまで様々な形で今回のオリンピック・パラリンピックに出場した選手、さらに惜しくも出場を逃した選手たちを支えてくださりました体育会43部の関係者、そしてあらゆる慶應義塾の関係者の皆様に心からお祝いと共に御礼を申し上げたいと思います。今日はこのような晴れ舞台でありますので、私の挨拶はこれくらいにして思う存分、選手、そして監督たちのお話を伺う機会にしたいと思います。本日は誠にありがとうございました。そしてオリンピック出場、さらには大活躍おめでとうございます。ありがとうございました。
【選手インタビュー】
豊田 兼 選手(環4・陸上競技男子400mハードル)
ーー豊田選手はお父様がフランス人でお母様が日本人ということですが、フランスのパリで開催された今大会に特別な思いはありましたか
今回のパリオリンピックは、大学に入学してから4年計画で「出場」を目的に体育会の方で日々鍛錬を積んできました。自分のゆかりの地というのも関係して本当に思い入れのある大会で、まずは出場できて安心といいますか、すごく楽しかったという思いがあります。
ーー実際にオリンピックに出場されて、国内大会との違いは感じましたか
今回オリンピックに出場するのも初めてだったのですけれども、国際大会に出場するのも初めてだったので、スタジアムの3階席まで人で溢れていて、歓声に溢れているスタジアムで走る経験は本当に初めてで。本当に楽しい経験だったなと思っています。
梅沢 和佳奈 選手(R3総卒・陸上競技女子5000m)
ーーオリンピックはどのような場所ですか
初めてのオリンピックだったのですけれども、3年前の東京オリンピックも選手として出場を狙っていましたが、出場は叶わず聖火ランナーという形でオリンピックを経験できて。その経験はすごく楽しい、ありがたい経験ではあったのですけれども、悔しい思いがすごく強く残っていまして、その悔しさをバネに3年間頑張ってどうにか出場にこぎつけたという感じになります。
ーー競技中はどのようなことを意識されていますか
理想といいますか、本当は自分の足を接地する感覚であるとか、上半身と下半身の連動を考えたいのですけれども、やはりタイムが気になってしょうがなくてですね(笑)。タイムを計算しながら走ってしまっているのが現状なので。もう少し自分の感覚に目を向けて走ることができればタイムなり結果なりが伸びてくると思うので、それを今課題にしています。
ーー陸上に励みながらも大学に進学して良かったことはありますか
良かった点しかないのですけれども、まず勉強も、体育会も、環境にすごく恵まれていたなと今振り返ってすごく思います。さらに、周りの友人であるとか、先生方であるとか、教授の方であるとか周りの方々にもすごく恵まれていたので、そのままプロに行かなくて良かったなと思っています。
尾﨑 野乃香 選手(環4・レスリング女子フリースタイル68kg級銅メダル)
ーー2024年1月末に代表内定が決まりましたが、パリオリンピックをどのように捉えていましたか
私は62kg級で今までやってきていて、オリンピックも62kg級での出場を目指していたのですけれども負けてしまいまして。最後に68kg級のオリンピック出場枠だけが残っていたので、挑戦しようというふうに決めました。そこから体重を増やして、今年の1月末に代表に内定したのですけれども、私にとってオリンピックというのは体重を上げるとかそういう問題云々ではなくて、本当に小さい頃から人生をかけて目標にやってきたことだったのでそれだけの思いがありましたし、この挑戦は本当にして良かったなと思っています。
ーー敗者復活戦から銅メダルを獲得されましたが、気持ちの切り替えについてお伺いしたいです
本当に苦しかったですし、負けてしまってからすごく落ち込みました。自分が敗者復活戦に出場できると決まったのが夜の22時頃で、それまでは体重も68kg以内でないといけないので次の日の計量に備えて何も食べなかったりだとか、精神的にも苦しくてどうなってしまうんだろうなとは思っていたんですけれども、父と電話をした際に父親が私に「ここまで苦しいことを野乃香は乗り越えてきて、それだけのことができる選手なんだ」ということを言ってくれて。ただ「敗者復活戦、頑張れ」ではなくて、「一度どん底を見てもそこから這い上がれる選手なんだよ」ということを言ってくれたのがすごく心強くて。私に今何ができるかなと思った時に、メダルを持ち帰ることが大切だと思えて、感謝の思いとかいろいろな気持ちを恩返しで返すためにメダルを持ち帰りたいと思えたので、そこで気持ちが切り替えられました。
ーー世界選手権などの国際大会でも活躍されていますが、オリンピックの舞台は他の国際大会とは違いますか
オリンピックを初めて経験して、どんな会場で、どんな観客がいて、どんな雰囲気なんだろうと思っていたのですけれども、初めての感覚でした。レスリングが開催されたアリーナには7000人がびっしり入っていて、観客の応援だったり音楽もすごくて。選手の側がエンターテイナーのような感じで、競技をすることによって選手が観客を盛り上げているような感覚で、すごく楽しく試合ができました。
飯村 一輝 選手(総3・フェンシング男子フルーレ団体金メダル、男子フルーレ個人4位入賞)
ーーフェンシング男子団体史上初の金メダル獲得という偉業を成し遂げましたが、フェンシングへの見方に変化はありましたか
見方自体は変わっていないのですけれど、本当に僕たちは千田さん(=千田 健太)や太田さん(=太田 雄貴)の北京・ロンドンの銀メダルに憧れて育ってきた世代で。メンバー自体は僕が最年少で、25、6、7と年上の先輩と団体を組む機会があったのですけれども、本当に僕は千田さんと太田さんの銀メダルに憧れてオリンピックを目指して、東京オリンピックはギリギリ届かなくて、パリオリンピックにシフトチェンジをした後はパリで金メダルを取ることだけを目指してやってきました。団体では金メダルを獲得することができたのですけれども、個人戦で準決勝と3位決定戦で立て続けに負けてしまって、4位という一番悔しい形で終わってしまったので、そこはロスに向けて切り替えたいなと思います。
ーー最年少ながらアンカーを務められましたが、団体決勝を振り返っていかがですか
僕が日本代表の団体メンバーに選ばれたのが約2年前、18歳の頃だったのですけれども、それ以来僕はアンカーをしたことがなく18歳の時からずっと3番手の役周りをしていました。それがイタリア戦、オリンピックの決勝のウォーミングアップをしていた時にミーティングがかかって。リザーブの選手が1試合でも出場しないとメダルをもらえないというシチュエーションだったので、リザーブの選手をどこで起用するかというミーティングなのかと思って集まると、「一つアイデアがある」と監督が言い出して、なんだなんだと思ったら「一輝をアンカーにしよう」と言われ、「血迷ったんかな(笑)」と思ったのですけれど、本当にその時はみんな速攻で「一輝でいいんじゃない」と僕よりも僕を信じてくださっていたので、ぼくは腹をくくってやるしかないなと思って臨みました。
宮脇 花綸 選手(R1経卒・フェンシング女子フルーレ団体銅メダル)
ーー競技暦22年と長い競技生活の中で、成長を感じた瞬間はりますか
一番成長したなと思うのは、東京オリンピック代表に落選した瞬間です。普通だったらオリンピックに届かなくてちょっと休もうかなとか、腐ってしまう時期だと思います。ただ、あの時はコロナ禍という特殊な時で、代表選手も海外選手との事前合宿ができなかったりというところで、私自身が一番強い練習相手でなくてはいけないという状況でした。なので、彼女たちに「芽を託す」ではないですけれども、私が良いスパリングパートナーとして、世界で一番強いパートナーとなることで、彼女たちにメダルを取って欲しいと思ったので。東京オリンピックに落選した直後からすごく良い練習ができたというところが、次の3年、パリに向けて本当に良い成長になったと思っています。
ーーこれまで長い競技生活の中で挫折もあったと思いますが、自分なりの立ち直り方はありますか
東京オリンピックが1年延期するとなったタイミングで、すでに私自身出場が難しいなと思っていたので、そこで一つ引退を考えました。ただ、その時に自分自身があまり良い状況ではないことは自覚をしていたので、そのネガティヴな状況であまり判断することではないのかなというのもすごく大事にしていました。やはり、良い時の自分は東京オリンピック、そして次のパリというのを目指して競技に取り組んでいましたので、自分の状態が悪い時に引退などの大事な決断をするべきではないという冷静な判断を下しました。
ーー飯村選手と宮脇選手は世界で活躍されていますが、時差や寒暖差など環境の変化にはどのように対応していますか
飯村:本当に飛行機移動も長いので、到着時間によって飛行機の中で寝るのか寝ないのかを調整しています。夜到着の場合は飛行機の中で寝てしまうと到着してから寝られなくなってしまうので、夜到着の場合は飛行機の中ではなるべく寝ない。朝到着の場合は、その後1日稼働しないといけないので、途中で昼寝とかをしてしまうとまた夜寝れなくなってしまうので、飛行機ではなるべく寝ておいて到着して起きる。睡眠に関してはこんな感じです。
宮脇:私は3つポイントがありまして、1つ目は機内でちゃんとマスクをするということです。乾燥で喉がやられてしまうのでマスクをします。2つ目は、飯村くんが言ったように初日にきちんと寝られるよう飛行機の中での過ごし方を調整するというところです。3つ目が、次の日にしっかりと外に出て歩いたり、練習がなくても日の光を浴びながらホテルで寝ることがないように活動する。この3点になります。
原 わか花 選手(総4卒・7人制ラグビー9位)
ーー女子ラグビーには15人制もありますが、なぜ7人制を選ばれたのですか
私がまず7人制ラグビーを選んだ理由で一番大きかったのは、やはりオリンピック種目に選ばれたというところです。高校からラグビーを始めたのですけれども、ちょうど始めた翌年にリオオリンピックがあって、そこで初めてラグビー競技が採用されたというところでした。その時に、オリンピックで活躍している選手たちを見て私もオリンピックに出たいなと思っていたので、こうして東京、パリと出場できていることは本当に幸せだなと思いますし7人制を選んで良かったなというふうに思っています。
ーー過去最高の9位をとれた要因はどこにあると思われますか
東京の時は最下位で終わってしまったのですけれども、やはりその時はコロナということもあって世界との差が自分たちでもわからなかった。世界の経験値がすごく少なかったのですけれども、東京が終わってからワールドシリーズのコアチームに昇格して、この2年間世界と連戦を重ねてオリンピックに行けたというところがすごく大きいと思っています。
ーー俊足が武器ということですが、やはり幼少期の頃に駆け回った経験が生きているのですか
そうですね。新潟の山の中で育って本当に裸足で山の中を走り回ったりしていました。「チャレンジ精神」を取り上げていただくことが多いのですけれども、本当に家の周りにドブがたくさんあって、どれだけ幅が広いドブでも跳んでみたりとか一回突っ込んでみたりというような経験が、今のチャレンジ経験や足の速さに繋がっているのではないかなというふうに思います。
高桑 早生 選手(H27総卒・陸上競技女子走り幅跳びT64クラス5位入賞、女子100m T64クラス14位)
ーー4度目のパラリンピック出場を果たしましたが、モチベーションの源泉はどこにありますか
一番はパラリンピックの舞台で勝ちたいという思いかなというふうに思います。私たちにとってパラリンピックという舞台は、どの世界大会とも本当に違う雰囲気であったりとか、周りのレベルもそうですし、みんな4年に一度の大会に向けて強い思いを持ってやってくるので。そこで味わえる自分自身のチャレンジ精神だったりとか感動みたいなものをもう一度味わいたいというふうに思って続けてきているのが、一番大きな要因かなというふうに思います。それと同時に、やはり自身の記録に挑戦すること、もっと速く走れるだろうし、もっと遠くに跳べるという自信が今の所は続いているので、そこをモチベーションにして挑戦し続けているかなというふうに思います。
ーー2種目に出場されていますが、コンディションはどのように整えられていますか
人によって考え方は色々あると思うのですけれども、私の場合は走ることがベースにあった上での跳躍というふうに捉えているので。技術面だったりでもちろん微妙に違う部分もあるのですけれども、まずスプリントの技術と力をメインに強化しているので、もちろん跳躍練習となるとかなり内容は変わってくるのですが、トレーニングの内容も、自分が鍛えたい部分の軸もそこまで大きく変わらないのかなというふうに考えています。
ーー5位入賞を果たしましたが、そうした考え方が記録に繋がっているのでしょうか
そうですね。陸上競技は屋外競技なので、気候やサーフェス(陸上競技場の舗装材)だったりとか、私たちの場合は義足も使ったりするので、その義足とサーフェイスがどれくらいマッチしているのかというところもかなりパフォーマンスには影響してくるのですけれども、やはり私の場合はスプリントが強くなければいけないので、まずはスプリントがしっかりできるかというところを指標にしながら臨んでいます。
水鳥 寿思 監督(総合政策学部准教授・体操競技男子団体金メダルほか)
ーー金メダルを獲得されましたが、試合の中で最も成功した部分を教えてください
最もというふうになると結構難しいなと思うのですけれども、戦略としては「着地」をここ2、3年かけて一番重視してきたので。多分振り返ってもらっても、日本が一番着地を止めていると思うんですよね。中国レベルでの着地の精度であれば日本は金を取れていないので、そこはしっかりやってきました。加えて中長期的な観点で見ると、岡選手(=岡 慎之助)がすごい活躍をしてくれたのですけれども、中学3年生の時に中学生で唯一彼をナショナルチームに一本釣りして、中学3年生だけれどもオリンピック選手・世界選手権代表選手と、代表ではないのに一緒に合宿させていたんですね。特別な選手として育ててきたところもあったので、そういった選手が土壇場ですごく花開いてくれたというのも大きかったかなというふうに思います。
ーーまだまだあるとは思いますが、もう一つ挙げるとしたらどの部分になりますか
もう一個あるとすれば、やはりチーム力。チームワークの部分はすごく大きかったかなというふうに思います。テレビでも、萱キャプテン(=萱 和磨)が「絶対諦めんな」というふうに言ってたと思うんですけれども、やはり選手が本音で「2位は嫌だ」ということを前日のミーティングで皆んなに言ったり、「皆んなでまじ頑張ろうぜ」って言っていた、そういう本音が言い合えたりだとか。体操は日々技が進化するので、例えば僕がいくらオリンピックに出たからと言って今の選手たちの技ができるわけではないんですね。もちろん指導はできるけれども、本当に選手が納得してできるレベルに教えられないこともある。だから、今の選手同士がしっかりコミュニケーションをとって、教え合うことがすごく大事なんですよね。選手同士が仲良い、お互いに強くなって欲しいというふうに本気で思えているかということがすごく大事で、そういう意味での支え合いというのはおそらくどの国よりもできていたのではないかなというふうに思うので。体操は演技をする時は一人ですけれども、その演技ができるためには仲間の協力が絶対必要だから、そういうところはすごく良かったかなというふうに思います。
ーー監督としての哲学や理念はありますか
理念と言えるかわからないのですけれども、やはり僕は選手が主役だと思っているし、選手がどうしたいのかという思いが一番大事なので。その主体性というか、僕が金メダルを目指したい、取らせたいというよりも、「皆んなが何を目指すのか」というのをどの代表チームが決まった時にも選手に聞いて、そうなるためにはどうすれば良いのかというのも皆んなで話し合っていく、というプロセスを踏んでいます。当然「金メダル取りたいです」が多くの場合の答えだと思うのですけれども、それを選手の口から聞くというところからチーム作りを始めています。
千田 健太 監督(総合政策学部専任講師・車いすフェンシング監督)
ーー北京・ロンドン大会では選手として、今回はパラリンピックで監督として出場されましたが、選手と監督ではどのような違いがありましたか
選手としては本当に目の前の試合に向けてしっかり準備して、勝つことだけを考えていたのですけれども、監督になってからは「いかにチームの選手が居心地良く試合ができるか」というところ、全体を見渡した上での一つ一つの気配りというのはすごく今回大変でしたし、そこはすごく大事だったので、ミスなくやるようにというのはすごく心がけていました。
ーー車椅子フェンシングは間合い、タイミング、スピードなどにおいて、通常のフェンシングよりも難しいと思いますが、どのような指導をされていましたか
車椅子フェンシングというのは、大まかに「障がいが軽いクラス」と「障がいが重いクラス」という2つのカテゴリがあるのですけれども、そのカテゴリの中にも個人の障がいの多様性があって。例えば、一人は下肢を欠損しているですとか、一人は脊髄が損傷しているですとかそれぞれ障がいが違う中で、自分がオリンピック選手だった時の技や勝利の方程式みたいなものを教えてもなかなかできないこともあると思うので、そういったところでいかに選手に合わせて技を組み立てていくかというところはすごく考えました。
ーー選手としての経験が活きた部分はありましたか
やはり、先ほどもおっしゃっていただいた「構えた時の剣の位置」ですとか「距離感」というところは活きる部分があったので、そういったところを選手ともコミュニケーションを取りながら進めていきました。
【選手挨拶】
千田 健太 監督(総合政策学部専任講師・車いすフェンシング監督)
皆様、今回私はパラリンピックだったのですが、とても大きなご声援をいただき本当にありがとうございました。いろいろなネットの記事も見させていただいて、皆さんからたくさん応援していただき本当に感謝しています。今回は入賞でメダルは0に終わってしまったのですが、次のロスに向けて、まだ車椅子フェンシングはメダルを獲得をしたことがないので、次のパラでメダルを獲得できるように頑張りたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
水鳥 寿思 監督(総合政策学部准教授・体操競技男子団体金メダルほか)
本当に、パリオリンピックでは応援をいただきましてありがとうございます。SFCでは、急遽僕と千田先生の2人しか参加はできなかったのですけれども、應援指導部の皆さんが壮行会を実施をしてくださりました。最初に横断幕を掲げてくださったのですけれども、それがメダルを取った後はメダルの色に変わったりということもあって、本当に慶應として応援いただいているというのを感じることができました。また多くの選手が今回オリンピック・パラリンピックに出場していて、そういう意味で体操以外でもすごく充実したオリンピックだったなということをすごく感じております。また、現在体育会の副理事もやらせていただいておりますので、こういった経験を体育会の学生にも伝えていけるように取り組んでいけたらと思っておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
高桑 早生 選手(H27総卒・陸上競技女子走り幅跳びT64クラス5位入賞、女子100m T64クラス14位)
まずは今大会に向けてたくさんの応援をいただき、本当にありがとうございました。私が、初めてこの塾長招待会に出席させていただいたのがロンドンパラリンピックの時なので、今から12年前になります。これだけ長い間、慶應義塾に関わって陸上競技を続けられたことを本当に幸せに思いますし、半分奇跡かなと思うくらい本当に長い期間お世話になってきました。水鳥先生もおっしゃっていたように、SFCでは出場すると横断幕を掲げてもらえるということで、それも私自身4回目、今年も掲げてもらえて本当に良かったと思いますし、嬉しい気持ちでいっぱいです。この先、私は次のパラリンピックがあるかどうかはわからないのですけれども、これから先、今回の経験であったり慶應義塾で積み重ねてきた経験を糧に自分の競技や人生を歩んでいきたいと思います。本当にこの度はありがとうございました。
原 わか花 選手(総4卒・7人制ラグビー9位)
今大会、パリオリンピックの応援本当にありがとうございました。私が最初にオリンピックに出たのは在籍中の東京オリンピックの時だったのですけれども、それから3年間本当に怪我なくこうやって皆さんに応援していただきながら競技を続けてこられて幸せだったなというふうに思っています。私自身、日本代表としての活動は今大会で退くことになったのですけれども、本当にこれからの7人制ラグビーの未来はすごく明るいなというふうに思っていて、今大会のバトンをこれからの未来の選手たちがしっかり繋いでくれると思うので、これからもぜひ7人制ラグビーに注目していただけたら嬉しいです。本当にありがとうございました。
宮脇 花綸 選手(R1経卒・フェンシング女子フルーレ団体銅メダル)
今日びっくりしたことが3つありまして、1つはSFCには横断幕あるんだということが経済学部生としては驚いたのと、2つ目はこれだけたくさんの9名もの塾員・塾生がオリパラに参加したのかということ、そして3つ目が女性の塾生・塾員は私たちが初めてということで、これまで女性のメダリストはいなかったんだというところで、この3点になります。慶應は「文武両道」を掲げている中でオリンピックに出場する、パラリンピックでメダルを取るというのは難しい面もあるかなと思うのですけれども、これだけ体育会の芽が開いてオリパラの選手も増えてきているので、私たちは体育会生の一員として今後もその流れを引き継いで、慶應義塾体育会をこれからもどんどんどんどん盛り上げて、今度はここに乗れなくなるくらいの選手が出場して欲しいなと思っておりますので、これからも一丸となって頑張っていけたらと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。
飯村 一輝 選手(総3・フェンシング男子フルーレ団体金メダル、男子フルーレ個人4位入賞)
本日はご多用の中お集まりいたただき、そしてパリオリンピックでは多大なるご声援・ご支援をいただき、ありがとうございました。フェンシングはフランス発祥ということでそのバックグラウンドも考慮しますと、パリで獲得することができたこの金メダルは金メダル以上に重みのあるものかなと思います。せっかく学生中に(金メダルを)獲得することができたので、僕が学生として慶應に何か貢献できることはないかと今考えている最中なので、まず学生に対して僕ができることは還元していきたいなと思っております。そして、このパリオリンピックで一番感じたのは応援の大きさでした。本当に圧倒的アウェイで戦う中、現地で応援してくださる方々の日本の国旗だったり、現地ではなく日本から応援してくださる慶應の方々、そして僕の周りの方々の応援を背負ってパリで戦うことができたので、本当に今回パリオリンピックを通して一つまた成長することができたと思っております。今後とも慶應生として、日本を背負いながら、慶應を背負いながらフェンシングを全うしていきます。今後ともよろしくお願いいたします。
尾﨑 野乃香 選手(環4・レスリング女子フリースタイル68kg級銅メダル)
今回のパリオリンピックでは、皆さんの応援が本当に力になりました。ありがとうございます。レスリング部としては72年ぶりにメダルを獲得することができて、そして(塾生・塾員の)女性メダリストは今回初めてということで、本当に誇らしく思っています。私も、本当にたくさんの応援してくださる方の存在を今回のオリンピックを通してすごく感じました。慶應のレスリングOBの皆さんでありましたり、三田会の皆さんも含め、本当に慶應一丸となって応援してくださったのがすごく心に沁みています。私自身、銅メダルという結果に終わってしまったのは嬉しい反面、本当に悔しい気持ちがたくさんあるので、4年後は金メダルを目指して、必ず金メダルを取るという思いで代表になれるように頑張ろうと思います。引き続き応援よろしくお願いいたします。
梅沢 和佳奈 選手(R3総卒・陸上競技女子5000m)
今回のパリオリンピックに向けて、たくさんの応援本当にありがとうございました。初めてのオリンピックで、本番ではなかなか思うように走れなかったのですけれども、競技人生で最大の目標であるオリンピック出場が叶ったということを大変嬉しく思っております。4年後のロサンゼルスオリンピックは、マラソンで挑戦したいと思っています。その時には、日本のお家芸でもありますので、メダル・入賞を目指して頑張っていきます。今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。
豊田 兼 選手(環4・陸上競技男子400mハードル)
オリンピックでも多大な応援ありがとうございました。先ほど、自分はオリンピックが楽しかったと言ったのですけれども、正直に申し上げますと非常に苦しいオリンピックになりました。まさか、怪我で走り切るのもやっとになるレースになるとは思わず、ゆかりの地でもあるオリンピックでしたので本当に苦しい思いでいっぱいで、終わった直後は呆然としていたのですけれども。今はもう切り替えて、4年後のロサンゼルスに向けて自分のやれることを精一杯やって、そこでメダルを取るということで4年間進んでいきたいと思っています。また来年、東京で世界陸上というのが行われるので、まずはそこでリベンジをして決勝に進出することを目標に頑張っていきたいと思います。今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。
(取材:長掛真依)