25年度に卒業を迎える4年生を特集する特別企画「光るとき」。第38回となる今回は、男子ラクロス部・林翼(商4・慶應)。幼稚園の頃からラクロス早慶戦を観戦し、幼稚舎から大学2年生まではプレーヤーとして慶應ラクロスと共に走り続けてきた。しかし、度重なる怪我を経てコーチに転向。3年時にはコーチとして学生日本一や全日本選手権大会をベンチで経験し、4年時も1年生の未経験者チーム(アーセナル)のほか、部外でもラクロスの面白さを伝える活動に尽力している。そんなラクロス一筋の彼が育て続けてきた「夢の軌跡」と、「夢の続き」とはー。
ラクロス一家で育った
祖父がラクロス協会関係者、叔父が慶應義塾高・慶大ラクロス部で主将を務めていたことから、物心ついた時には家にラクロスのクロスがあったという林。幼稚園の頃にはラクロスの早慶戦で体験会にも参加していた。さらに、幼稚舎時代の担任の先生が女子日本代表監督経験者で明治大学女子ラクロス部の監督という縁もあり、幼い頃から何度もラクロスの試合を観に行っていた。「なんとなくラクロスをやるんだろうな」とは感じていたといい、小学4年生の時に初めて自分のクロスを買ってもらって練習するようになった。小学5年生からクラブ活動が始まると、幼稚舎ラクロス部に入部。これが林の慶應ラクロス人生の始まりだった。「当時は幼稚舎しか強いチームがなくて、何をやっても優勝だし、得点王になれたり、自分が活躍できる。まだ開拓されていない、みんな知らないスポーツだからここでやったら1位になれるかなと思った」と幼稚舎時代を振り返る。

幼稚舎時代の林(本人提供)
慶應義塾普通部時代は、競技人口が少ないがために女子校と試合をすることも多かった。それでも、男女で競技ルールが大きく異なることから防具をつけた激しいラクロスをしようと大学生に混ざって外部のコミュニティでもラクロスに励んでいた。中学3年時には、慶大ラクロス部でも共に時間を過ごした1つ上の大高幸馬(25卒)が本場・アメリカでラクロスを経験していたことから、ラクロスの面白さにさらにのめりこみ本気で日本代表を目指すようになった。それからは祖父と日本代表の試合から海外の試合まで、あらゆる試合を観てラクロスを勉強し続けた。
慶應義塾高でもラクロス部に入った林は、「小中でラクロスを経験している人なんて基本いないから、流石に同期で俺より上手い奴はいないだろうと思って入部した」と当時の率直な思いを語ってくれた。しかし、同期にはチリでラクロスを経験していた太夫勇人(医4・慶應)がいただけでなく、未経験者ながら圧倒的なセンスで実力を伸ばしていく大山颯輝(経4・慶應)の姿があった。最初の新人戦では大山が注目選手に選ばれ、さらに2ヶ月間部活を離れた間に気づけば同期はどんどん成長していた。それでも試合に出場した際、相手の大学生選手にフィジカルで打ち勝つと、このプレーが評価されて高校生ながらU19日本代表の選考会と関東ユースから声がかかった。順調かに思えた1年生だったが、代表選考は最終選考を前に脱落してしまい、関東ユースは新型コロナウイルスの感染拡大によって中止となってしまった。高校2年時も、慶大2024シーズンの絶対的エース/主将・藤岡凜大(25卒・現Stealers)のほかATの選手層は厚く、Aチームに入ることはできなかった。それでも、壁当てなど自主練の努力が評価されて高校2年の夏休み明けにはAチームに昇格。このまま定着を図りたいところだったが、小学6年時に怪我をしていた右膝の前十字靭帯が再び断裂。高校3年の8月まで戦線を離れたことで、復帰後も思うようにプレーできないまま何もできずに引退を迎えてしまったという。
慶大ラクロス部への憧れ
慶大オフェンスのエースナンバー「3」番を「伝説の3」にした立石真也(21卒・現FALCONS)の活躍を観て育った林は、とにかく慶大ラクロスに強い憧れを持っていた。だからこそ、高校時代の不完全燃焼も相まって入部を即決。高校3年で引退を迎えた時から大学の練習に参加し続けていた。努力と熱意が報われて早々にBチームに配属されるも、今度は合宿で肉離れ。Cチームに降格してしまい、林の出場が予定されていたBリーグの試合では、同期の太夫勇人と中西海(経4・海城)が出場し結果を残した。それでも、Cチームで活躍できていることに満足して終わってしまったのが大学1年生だった。

1年時の同期写真(ラクロス部提供)
大学2年生になってからも、Bチームに戻ることはできなかった。トライアウトでは同じATの山田洸土(政4・慶應NY)がBチームに昇格。さらにMFでは、太夫と大山颯輝がBチームに選ばれた。焦りを感じながらもなんとかBチーム昇格を目指していた最中に、今度は左膝が炎症して膝蓋腱炎(靱帯炎)になり、痛み止めを打って競技に励む日々。それでも痛みが抑えられなくなってきた時、大学1年時から取り組む普通部コーチの経験から、コーチ指導級という資格を取得することを考え始めた。そして、程なくして資格を取得。幼稚舎時代から、中学、高校と主将や副将を務めてきた林は、ラクロスを教えることや競技の面白さを伝えることが好きだった。また「お世話になってきたコーチがすごく素敵だったから、この人たちみたいになりたい」という思いも、コーチへの転向を後押しした。「でも最後に選手としてあがきたかったから、次の人事変動でBチームに上がれなかったらコーチになると決めた」と当時の心境を明かしてくれた。
コーチ1年目で憧れの舞台に
大学3年時から正式にコーチになると決めた林は、Aチーム初の学生コーチになるべく取得に1年を要するA級のコーチ指導者級を目指した。同期の池田朋史(商4・慶應)や、当時の主将・藤岡凜大にも相談し、Aチームに帯同してフライ管理(選手の出場管理)や社会人コーチと選手たちの橋渡しをする重役を務めることとなった。Aチームに帯同しながら、幼い頃から試合に出場する姿を見てきた憧れのHC/OFコーチの関根幹祐(07年卒・現FALCONS)やDFコーチの佐野清(東北大卒・現FALCONS)のもとで、ラクロスを再び勉強し直した。シーズン開始3ヶ月後には、AS/C・福山幸太朗(25卒)と共に練習メニューを任されることとなり、シーズン最後の全日本選手権大会まで先輩や両コーチとひたすらにコミュニケーションを取り、Aチームの練習を組み立てていた。さらには、幼稚園の頃から見ていた早慶戦、リーグ戦全試合、学生日本一、そして全日本選手権大会の最後の瞬間までベンチに立ち続けた。「憧れの舞台にコーチとして立ったというのが面白いし、俺らしいなと思った。同期と一緒に戦うこともできたし、大学4年間でやりたかったことが全部達成された1年だった」と振り返る。

全国選手権大会のベンチにも立った
慶應ラクロスが強くあり続けるために
4年生を目前にして、学年MTGで話し合ったのは「卒業した後も、強くあり続ける慶應ラクロス」について。「アーセナルチームこそが卒業した後の慶應ラクロスの命運を握っているし、その強さが次の年の慶應ラクロスの強さに関わってくるからすごいアーセナルチームを大事にしてきた。凜大さんがそのことを教えてくれた」という。アーセナルコーチを決める際に、幼稚舎や普通部、ジュニアチームなどコーチ活動に力を入れている林に白羽の矢が立った。A級のコーチ指導級を取得し、当初はAチームでベンチ入りすることを考えていた林は藤岡凜大に相談。「(前年度に)Aチームで培ったものを主導権を握って発揮できるのはアーセナルチームじゃない?めっちゃ楽しいと思うよ」その言葉と、慶應ラクロスへの愛に背中を押されて、他大学のAチームコーチでもなく、慶大のアーセナルコーチを務める決意をした。先輩が言っていた「何か還元できるもの」。それが林にとっては、最強のアーセナルチームを作ることだった。大学1年時から仲の良かった同期の吉田一生(経4・慶應NY)や、安藤緋色(政4・慶應)が全力でサポートしてくれたこともあり、林が実現したいアーセナルチームを実現すべく走り始めた。

ラストイヤーはアーセナルコーチを務めた
シーズン開始前の時点で、すでに1年間のビジョンは完璧に見えていた。「初心者に教えるからこそラクロスを学び直したし、ラクロスを構造的に考えるようになった。Aチームで幹祐さんとか凜大さんから学んだことを踏まえて、一人ひとりの強みを考えて戦術を考える楽しさを知ることができた。今までにないくらい一番全力でラクロスに向き合った」とラストイヤーを振り返る。林が全員の強みを活かすべく懸命に考えた戦術が功を奏し、練習中から組織的なラクロスが完成の兆しを見せていた。選手たちにも、確かにその感覚があったという。「サマーで優勝した日体を倒したけど、最後は引き分けとなり得失点差で勝ち進むことはできなかった。でも、俺がやりたかった個人の実力に依存しない組織的なラクロスが完成した状態で終われたと思う。悔しかったけど、自分の中では信じられないくらいやり切ったな」と満足げな表情を見せた。さらに「信じられないくらいアーセナルとも仲良くなって、本当にやってて良かったなと思う。第二の同期みたいな存在」だと語っていた。すでに六大戦に出られそうな選手もいるといい、「あの代全体に期待しているし、4年生になった時に俺を呼んでくれて良いんだよって思ってます(笑)」と嬉しそうに話してくれた。

藤岡凜大と林翼(左から・本人提供)
慶應ラクロスの後輩たちへ
ラストシーズンを経て感じたこと。それは「あの凜大さんが毎日アーセナルと、Bチームと、Cチームと毎日ミーティングして、あれだけやっても社会人を倒せなかったということを重く受け止めてほしい」ということだ。「あと1年あるって考えてしまいがちだけど、半年後には引退している可能性がある。日本代表を経験した代は3年生しかいないし、あの緊張感とか、A1(全日本選手権大会決勝)に向かう努力量とか練習の雰囲気を継承できるのは3年生だけだから。土壇場の勝負力・判断力は経験者じゃないと分からないからこそ、1分1秒でも長くラクロスを考えてほしいし、先輩たちからいろんなことを吸収してほしい。色々やりたいことがあるかもしれないけど、今の慶應ラクロスにそこまでの余裕はないと思う」と最後まで慶應ラクロスのことを考えていた。
これからも「一緒に夢を叶えられる人」でありたい
林にとってラクロスは、人生そのものだった。ここまで頑張ってこられたのは「何があってもラクロスが好きだから。嫌いになった瞬間が生まれたら何もかも失うんだろうなと思っていた」という。ラクロスがあったから人生で関わるはずのなかった人と関われた。部活でやってると嫌いになっちゃう人が多いから、それで考えたのがコーチだった。シンプルにラクロスが好きだったから。失っちゃうしね。嫌いになっても。」とラクロスとの向き合い方を話してくれた。
大学4年間は「夢を叶えるフェーズだったかな。小学生の頃に思い描いていた学生日本一を達成できたという意味でも、コーチとしてもやりたいことを叶えられた」という。そして「自分の夢を叶える上で、人の夢を育てたい。一緒に夢を叶えられる人でありたい」と語った。ラクロスという競技について「まだ未開拓だし正解が見つけにくいからこそ、いろんな人間を参考にしなければいけないと思っている」と語っていた。試合の勝ち方や選手との向き合い方、最後の1秒まで点を取りに行く姿勢、慶應ラクロスへの愛、構造的なラクロス、日本一の目指し方。これまで出会ったコーチや先輩から、大事なものをたくさん学んできた。
次なる目標は、コーチや仕事でラクロスに携わること。「それだけは何としても掴み取ろうと思っている。ジュニア世代をもっと盛り上げるというのは一個の目標かな。未来への投資が好きだから」と話してくれた。

これからも夢を描き続ける(ラクロス部提供)
誰にも負けないラクロス愛と、誰かと一緒に歩める温かさー。
自分らしい色で、自分の、そして誰かの人生を彩り続けて欲しい。
(取材:長掛真依)


