慶應スポーツ新聞会

【野球】 慶大野球部OB!木村匡宏さん×田中大貴さん対談

 

今回のイベントを企画した木村匡宏氏(写真左)と司会を務める田中大貴氏(写真右)

今回のイベントを企画した木村匡宏氏(写真左)と司会を務める田中大貴氏(写真右)

 今回取材に協力して頂いたのは慶大野球部卒で、寮生活時代は同室だったお2人の木村匡宏さんと田中大貴さん。8月31日に行われる一般社団法人Double Education社主催の仁志敏久さん×高木大成さんの対談イベントで一緒に仕事をすることになったお2人は学生時代どのように野球と向き合ってきたのか。知己の仲のお2人だからこそ話せる本音を今、語って頂いた。     ―自己紹介をお願いします

子供たちに文武両道を目指してもらいたい。その一心から今回のイベントを企画した木村氏

子供たちに文武両道を目指してもらいたい。その一心から今回のイベントを企画した木村氏

木村 木村匡宏と申します。一般社団法人“Double Education”という法人を立ち上げました。文武両道とよく言われているのですが、文武両道というと固いので、2つ一緒に共存ということでこの名前にしました。スポーツと学びを両立して共存できる場や機会を子どもたちに提供する非営利団体として活動しています。 田中 何学部ですか?(笑) 木村 経済学部です。 田中 何浪したのですか?(笑) 木村 2年間浪人して、福島県出身なのですが、福島高校というところから、本当は早稲田大学に行く予定だったのですが何故か慶應大学に来てしまいました(笑)卒業してから中央三井信託銀行という銀行に勤めていたのですが、2年間で辞めて、子どもたちを中心にスポーツや野球を教えている団体があるのですが、そこで今年で活動して9年目になります。 田中 田中大貴と申します。フジテレビでアナウンサーをやっているのですが、木村と大学同級生で、僕ら社会人になって10年経ったので、自分たちが学んできたことや野球と勉学を両立してきたことがどれだけ生きるかということを感じたので、それを上手く子どもたちやみなさんに伝えられないかなという考えがあって、Double Educationという一般社団法人を木村たちがつくって、同級生たちが多く協力してくれているのですが、僕もアナウンサーという立場で協力できればなと思い、今回(高木)大成さんと仁志(敏久)さんに声を掛けさせていただきました。環境情報学部出身で、兵庫県小野高校というところから来まして、野球がやりたかったので、勉強してAO入試で入りました。大学で野球を4年間十分やったなと思ってフジテレビを受けたらアナウンサーという職業に就いたので、いろいろなプロフェッショナルの人たちに会うことが出来たので、その人たちが思っていることや考えていることをこれからの後輩たちに伝えられるようになれたらいいなと思って、今回活動をやっている木村たちに協力しようと思いました。

―なぜ慶應大学に入学しようと思ったのですか

フジテレビのアナウンサーとして第一線で活躍する田中氏

フジテレビのアナウンサーとして第一線で活躍する田中氏

木村 僕は高校時代、野球をすごくやってしまいまして、勉強が比較的疎かになってしまって。それで野球が終わった時に目標を失ってしまいまして、その時にある恩師から「東京に行って、神宮球場に早慶戦という舞台があるからそこを見てこい」と言われ、新幹線と早慶戦のチケットを頂いて福島から出てきたんですね。それで「僕は早慶戦という舞台に立たないと死んでも死にきれないな」というところまで思って、それから勉強を頑張りました。 田中 僕が高校の1年生の時に、東京六大学で目に映ったのが高橋由伸先輩で、それを見ていて東京六大学、慶應大学というのを知って、甲子園の次は東京六大学に行こうという風に思いはじめまして、関西にも関西学生野球というのがあるのですが、やはりやるのだったら日本No.1の学生リーグに行きたいと思って慶應大学を受験しようと思いました。はじめ、関西の大学に行こうと決めていたのですが、やめて受験しました。そこで人生の運を使い果たして、偶然現役で行くことが出来て、慶應大学に行くことになりました。

―入学してみて、慶應大学はどのような大学でしたか

木村 おしゃれだなと思いました。田舎出身だったので(笑)綺麗な方が多いですし。僕は早稲田大学に行きたかったので、そのイメージで入ってきたのですが、ちょっと違いました(笑)実は、入学式の一週間前に野球部に入部して、入学式の時には学生服を着ていて、野球部の1年生として部内での仕事があって、それをどうやってこなしていくかで頭がいっぱいで大学全体を見回している余裕はありませんでしたね。 田中 慶應大学は卒業してから「慶應大学ってこんなところだったんだ」とみんな思うところです。その当時は大学生活をいかに楽しみながら授業を乗り切っていくかということが最優先だと思うのですが、卒業してから慶應義塾という仲間のつながりや先生とのつながりやコミュニティの広さやネットワークの強さを感じて、社会人になった時に「慶応大学を卒業してよかったな」と思う大学が慶應大学だと思います。

―今、期末テストの時期なのですが、単位を取るコツなどはありますか

田中 これはアレでしょう!チームワークでしょう。自分の英知と友達の英知を結集させてしっかり乗り切ることが大事ですね。それぞれ得意分野もあれば苦手分野もあると思うので、友達に必死に学ばせてもらい、自分も学ばせてあげるというのが単位を取るための秘訣ですね。 木村 学部によって試験のクオリティが違うと思うのですが、その時には「必要なタイミングでこの勉強はするべきなのだな」と割り切って、ちゃんとテキストをやった覚えがあります。 田中 後は諦めない!この授業は無理だから単位いらないとか思わず、最後まで諦めない、最後まで粘る、という。それがどこで生きてくるか分からないですし、もしかしたら大学4年の秋に卒業できなくなるかもしれない不安に駆られるのは1番怖いでしょうから、諦めず、全部の単位を取るつもりでやるべきです。諦め始めたら、留年するパターン、来日するパターンだと思います(笑)

―当時の野球部の雰囲気はどうでしたか

両氏は終始、仲の良さを見せてくれた

両氏は終始、仲の良さを見せてくれた

木村 2年生の時、4年生がちょうど日本一になった時期で、なおかつ甲子園で活躍した人たちや勉強で頑張ってきた人や指定校推薦で入った人など色んな人が集まった時期だったのですが、その中でキャプテンのキャプテン心の発揮の仕方が非常に参考になりました。あとは2年生から3年生になるときに、自分がある程度結果を出していかないとこのまま神宮の舞台に立てないで終わってしまうのではないかと危機感がありながら無我夢中になった時期を過ごしましたね。 田中 ちょうど大学1年生の時、ラグビー部が創部100周年で日本一になったんですよ。それを野球部全員で秩父宮に観に行ったときに、「大学スポーツってこんなに注目されて影響力があるんだ」と思って、その次の年に野球部が日本一になって、それを観た時に「自分が3・4年生になった時に慶應大学の名前で日本一になる」ということを夢に見ながら、レギュラーになるということではなく、日本一になることを考えてやっていました。日本で一番になることを見させてくれる大学野球部だったので、今振り返ると凄いことをやっていたのだなと思いますね。

一番苦労したことは何ですか

田中 部員がとにかく多かったので自分をいかに知ってもらうかということが課題でした。1つのポジションに10人くらいいて、4年間でこの人たちを抜くことができるのかと思いました。監督や先輩に名前を覚えてもらって、自分の実力を見てもらえるようになるまでいかに行くかというのをすごく考えました。野球部での雑用は全然苦にならなかったですね。上下関係が厳しいわけでもなく、理不尽なことがある場所ではなくて、そういったことは苦ではなかったです。 木村 僕も、認めてもらうことと結果を出すことにすごく苦労しました。僕は2年間遅れて入っているので、新人の頃、僕は一生懸命走っていても大貴には絶対追いつかなくて、走っているときに体が空中分解してしまうのではないかというところまでいきました。幸いなことに3浪して入ってきた子がいて、その子と練習終わった後に部屋で泣き言ばかり言っていました。 田中 後は授業に集中するということも大変でしたね。周りの子たちが野球部ということで応援してくれていて、周りの子たちに支えられました。 木村 僕は外の空気が吸えるので、授業に行きたくて行きたくてしょうがなかったですね。

―思い出に残っているエピソードは

木村 僕と大貴は1年生の時、グラウンド整備をやっていたんですね。それで僕は几帳面ではなくて、彼は非常に貴重面で、グラウンドのならし方がとてもきれいで、1番最初にコミュニケーションを取ったのはトンボの使い方を教えてもらった時でした。 田中 僕はそれ、全然覚えていないです(笑)寮生活で、門限が11時で、それにいかに間に合うように遊ぶか考えていました。あとは、寮のおばちゃんがすごく選手たちのことをよく分かっていて、彼女にフラれて帰ってくると何も言っていないのに「彼女とうまくいってないでしょ」とか全部心が読めるおばちゃんで、そういう意味では寮のおばちゃんとの思い出は凄いあります。

―印象に残っているご自身のプレーはありますか

木村 僕は4年の春まで1軍に上がるチャンスはなかったんです。それで4年の夏に何とか結果を残すことが出来て、最後のリーグ戦で初めてユニフォームをもらったんです。その次の日の試合でいきなり代打で後半出させられて、当時明治大学の良いピッチャー相手に粘ってセンターに抜けるかなくらいのヒットを打ってファーストベース上に立った時に、実はある約束をしていたんです。当時のファーストコーチャーは同じ一般入試組で、彼が選手からコーチになるときに「俺はコーチになってお前らを支えるからお前は神宮の舞台に立ってヒットを打って1塁ベース上で握手をするぞ」と約束していたんですよ。それを達成できた時のことを思い出すと、今でも鳥肌が立ちます。 田中 あー・・・感動的だなあ。そんな良い話されたらなかなか出てこないんだけど(笑)僕は4年生の春がすごく調子が良くて、東大戦でホームランを打って、2週間後が明治戦だったんですよ。その日が僕の誕生日だったんです。人には言っていなかったのですが、どうしても誕生日にホームランを打ってやろうと自分の中で思っていたんです。8回の裏、1-0で負けている場面で、僕が凡退したら負けるかもなと思っているときにレフトスタンドにホームラン打ったんです。初めてこの日に打ちたくて、この場面で打ちたくて狙いにいってホームランを打てたので嬉しかったですね。  

―早慶戦はどのようなものですか

木村 僕にとっては高校の時に全てをかけて頑張るという夢を与えてくれた場だったんですよ。早慶戦という舞台がなかったら、間違っても福島の片田舎から受験勉強頑張って慶應大学に来るとは思わないです。そういう舞台があったから頑張れたし、大学でも頑張れたと思います。 田中 僕は早慶戦は全く打てなかったので、凄い嫌な思い出しかないです(笑)早稲田の和田君(現・オリオールズ)は僕たちの同級生で、早慶戦春も秋も僕が最後のバッターだったんですよ。しかも両方三振に終わって、もう早慶戦一生出たくないなと思うくらい苦い思い出です(笑)でも今思うと、自分の名前が4番バッターでコールされた時に、2万人くらいいるお客さんが凄い歓声をあげてくれるんです。そんなシチュエーションって学生野球で早慶戦くらいしかないわけですよ。それで僕は満足したところもあって、ダメだったなというところもあるんですけど。あの経験を越えるものを探したいし、それを後輩やコーチたちにも伝えたいと凄く思いますね。なんか良い話してるみたいな感じになって申し訳ないな(笑) 木村 いやー良い話だよ!(笑)

―大学卒業後の進路は何か考えていましたか

木村 実は僕はそこが難しいところで、大学でとにかく早慶戦目指して野球やってたので、気が付いたら就職活動が来ていました。しかも今頑張らないとメンバーにも入れないというような時期にちょうど重なってしまったので、今思うとほとんどしてなかったという感じです。 田中 そうね。春野っていう高知県にあるキャンプ場で合宿があるんだけど、その時期にちょうど就職活動が始まってね。 木村 そこから就職活動をきっかけに、色んなOBの方々と話す機会があって、社会人として第一線で活躍している方がいるというのを知って、「じゃあ自分はどういう道に進めば良いんだろう」ということで完全に迷っちゃって。まあ路頭に迷いつつ、トレーニングもしないといけないという凄いもがいていたという思い出がありますね。たまたま縁があったところに決まっちゃったというか、そんな感じでした。 田中 僕はですね・・・。大学3年生の11月に一人ずつ監督室に呼ばれて、3年生が。「お前は進路どうするんだ?」と聞かれるわけですよ。例えば銀行に行きたいとか商社に行きたいとかだったら、「こういうOBがいるから話を聞いてみなさい」と監督から言われるんです。僕の場合は、監督が野球を続けろ、というんですよ。監督室で少し考えてたら、「とりあえず野球を続けるなら就職活動はあまりしなくて良いだろう。お前にはOB紹介しないから」と言われてちょっと腹が立ったんです(笑)「ちょっと僕野球辞めるかもしれないですし、(そうおっしゃるなら)就職活動は勝手にやります。野球は今後もやろうと思って頑張ります。就職活動は勝手にやります」って言って受けに行ったところがフジテレビのアナウンス試験で(笑)3年生の1月の頭にみんなで受けに行って、気が付いたら最終試験にまで受かってて、一回立ち止まってみなさんに相談して悩み。会社側にも「本当にアナウンサーになりたいなら明日試験を受けに来てください」と言われて、もちろん木村やプロ野球に行った高橋由伸さんに相談しました。結局、「自分を指名してくれたところが運命なんだから、受けに行って受かったんだったらハンコ押してこいと。それでもし、本当に野球続けたいってなるんだったら頭下げてこい」と言われてハンコ押しに行って、気が付いたらフジテレビにいると。あんまりアナウンサーになりたいと思ってフジテレビを受けに行ったわけではなくて、気が付いたらそこにいたって感じだから物凄い申し訳ない就職活動をしているんですね(笑)分かんないでしょ?自分がやりたいことなんて二十歳やそこらじゃね。 木村 アナウンサーになるの?アナウンサーのアの字も聞いてなかったのにもう最終試験か、って感じでしたからね。 田中 1週間毎日ゆりかもめ乗ってお台場まで行って、学ランでね(笑)何やってるんだろうって思いましたね。みんな分からないよ、どういう人生になるかなんて。

―就職活動で感じた慶應の魅力などはありますか

木村 これはもう、影響力が違います。大きい話をすると、福澤諭吉先生以来、社会に大きく貢献してきたんだなっていうのが一目で分かるくらい慶應出身ですって言うと反応してくれます。凄い方々が多いので、慶應大学の中で育ったということで社会が門戸を広げてくれる、チャンスをたくさん頂けるというのは贅沢だなと今でも感じます。 田中 先輩たちが作ってくれている土俵があるので、後輩たちはそこに乗っかれるような、受け入れ態勢ができているというところに驚きました。後世に続くように、先輩たちが築いてきてくれていることを感じます。慶應大学だ、っていうことだけで通じる言語があるようなものなので、卒業してから慶應大学に行って良かったと思うことが非常に多いです。

―結果的に進んだ進路についてどう振り返りますか

木村 一回勤めた銀行を辞めて、もう一回スポーツとか子供たちにかかわっていきたいという思いを大事にして、9年間やってたんですけどそこでやり尽くした感じがあって。それがちょうど昨年だったんですけど、社会人になって10年目。大貴と再会して話をしているうちにベクトルが一緒だったんです。もう一回ここからやってやろうという気になって。30代前半にしてもう一回思春期が来たような感じです(笑) 田中 自分が選んだ道が正しかったかどうかというのは本当に死ぬまで分からないと思うんですよね。これで良かったのか色んな答えを探し求めると思うんですけど、自分が何をやりたいかさえあれば、人生一回だからやりたいと思ったことをやらないと後悔すると思います。今やりたいことをどれだけできるかということが大事だと思います。

―学生時代に学んだことは今生かされていますか

田中 学生時代に学んだことを生かいたいなと思っています。学生時代に築いた仲間とか人脈とか経験とかです。入社して10年間は生かしてないというか分からなかったんだけど、だいぶ時間が経って、学生時代を振り返られるようになったから、学生時代の経験を今になって生かしたいなと思いました。 木村 学んだというか身に付けようというものなんですけど、品格を大事にしようと。どんな人に会っても最初に感じるところだし、品格は慶應大学にいるだけで自然と身に付くものだったんだなあという。外に出ていった時も品が良いだけで話が上手く進むこともあるのでね。 田中 他大のキャンパスとどこか違うものを感じるんだけど、学生時代は何だか良く分からない。色んな考え方や価値観の人が居て、一見違う方向向いてる人ばかりだと思うんだけど、最終的には同じ方向向いているから慶應大学というコミュニティができあがると思います。社会人になってから慶應大学出身の人に会うと同じ境遇で育ってきたんだなと“何か”を感じます。「慶應っぽいね」っていう言葉、そのぽさってのは学生時代には分からないと思うんだけど、卒業してから分かると思います。4年間こういう環境で生きてきたということが重要なんだとね。 木村 もう一つあるんだけど、この先高いハードル、壁にぶつかる時があると思うんです。でもあの時できたんだからっていう過去の体験が支えになったということと、慶應大学の学生ってどこかのステージで頑張ったという人なので、意識の高さというかそういう面では凄い感じさせられてそういう心持は今でも役に立ってます。  

―野球部時代同室だった2人がまたこうやって一緒に仕事ができることについて

田中 30代で思春期が来るっていうことなんだけど、前は野球をやるという目標があって今は違う形だけど同じ方向向いてチームみたいになっているので、あの4年間と同じ感覚になっています。昔を思い出しているというか、2回目の大学生をやっている感覚です(笑) 木村 確かに!(笑)10年間第一線で活躍してくるとこういうこと身に付くんだなとか、だから大学の時凄かったんだとか、意識の高さが見えてクオリティが違うなと思います。あと学生の時に、家族より暑苦しい時間を過ごさないといけなかったんですよ。そういった感じで付き合いが長いので、全部が全部説明しなくても分かり合える部分もあります。逆に自分が出来てないことを指摘された時に、他人だったらカチンと来るようなところも、大貴だったら確かにしっかりしないとな、ってなったりして4年間一緒に過ごすというのは大きいと思いますね。 田中 大学時代の後悔を払しょくするためにもう一回やっているという所もあると思う。10年経ってみんなそれぞれ経験してきたものを生かしてやってみようみたいな感じです。勝負している感じがあります!

―その仕事がこのDouble Education社主催の対談イベントということなんですが、イベントの概要の説明をお願いします

木村 六大学で同じように早慶で主将を担ってきたスターに来て頂いて、早慶戦の雰囲気とか、なぜ早慶を目指したのかとかそういったものをお話しして頂くというものです。テレビとかネットでは絶対に味わうことのできないライブということを大事にして、それをできたら子供たち、小学生中学生に伝えたいと思っています。そして自分が進んでいく道にある壁に対して乗り越えられるきっかけになれたらなと思い企画しました。

―そのイベントの司会を担当するということなのですが、何か意識されていることはありますか

田中 二人には今だからこそ言える本音を語って頂きたいと思っています。寮生活はどうだったのか、キャプテンとして自分はどうだったのか。学生の時ではなくて、今だからこそ言える本音があると思うので、お互いのことをどう思っていたのかなど本当のことというのを大事にしたいと思っています。それとなんで2人は桐蔭学園、常総学院に行って、なんで甲子園で活躍出来て、なんで早慶を選んで、なんでプロ野球選手になれてっていう“何で?”を大切にしたいと思っていて、結果的に仁志さんはこれから指導者、大成さんは球団経営の道に進んで、2人は別々の道に進むことになって、それはなぜなのかというのを大事にして司会をしたいなと思います。子供たちには野球を続けるにしろ、辞めるにしろ、2人みたいに立派な社会人になって欲しいという願いがあります。

―六大学の先輩にあたるわけですが、参考にしていたところなどはありましたか

木村 大成さんは僕が小学生の時に甲子園で物凄い活躍をしていた記憶があります。当時僕は右打者だったのですけど、大成さんは左打者でバッティングフォームがカッコ良いなと思って練習していたら僕もいつの間にか左打者になっていました。なので打撃で参考にさせて頂いたというか憧れでしたね。 田中 仁志さんには伝説があるんですよ。早慶戦の時に監督のサインをチームの誰も見ずに、仁志さんが監督と反対のベンチの端の方にいて、仁志さんがサインを出して早慶戦を勝っているという逸話があります。そんな話を聞いたらどんな人なんだと思いますよね。会ってみたいなと思ったのが最初に思ったことです。仁志さんとは今「すぽると」という番組で共演させて頂いているんですけど、とにかく考えて野球をやる人です。考えて野球をするとこんなに上手くなるんだということを知ってもらいたい。大成さんはもう王道で、桐蔭―慶應―西武っていう超エリート。そういう人たちが実際にどういう風に野球と向かい合ってきたのかというのを聞いてみたと思っています。2人とも伝説持っているのでね、そこのところ詳しく聞いてみたいです。

―最後になりますが、現役選手に一言お願いします

木村 一つ知っていて欲しいことは選手たちが思っている以上に、子供たちは貴方たちを目指しています。みなさんのプレー1つ1つが子供たちに夢を与えています。それを知ってみなさん頑張って頂きたいです! 田中 4年生まで来た時に、「あ、もう俺は神宮でプレーできそうにないからバット振るのやめよう」とか、「ボール投げるのやめよう」とか諦めそうになる瞬間が来ると思います。でも神宮球場でプレーしたことがあるかどうか、ベンチに座ったことがあるかどうか、KEIOのユニフォーム着たことがあるかどうかで全然経験数や自信が違ってくると思います。あの時こうしてればよかったという後悔を少なくするためにも、4年生の最後の早慶戦のラスト1球まで自分は試合に出るんだっていう風に思って4年間諦めずに生活して欲しいと思います。何事にも逃げないことが大事です

―木村匡宏さん、田中大貴さん、お忙しい中ありがとうございました!

(取材・慶應スポーツ新聞会 野球班 渡邉拓磨 堀越ゆかり)

 

 

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