【競走】「未来に希望を継ぐ走りを」競走部OBインタビュー・片岡孝昭さん(後編) 箱根駅伝予選会直前特集⑨

競走

31年前――三色旗の襷は箱根路で継がれた。1994年/第70回箱根駅伝、記念大会として出場枠が増えたこの年、慶大競走部は10年ぶりの本戦出場を遂げた。今回ケイスポでは、当時駅伝主将としてチームを牽引した片岡孝昭さんにインタビューを行い、色褪せない当時の記憶を辿った。後編では、花の2区出走前後の心境、大手町フィニッシュ地点での出来事などをお届け。箱根駅伝予選会まで、あと1日。

※本記事に掲載されている写真の一部は、慶大競走部OBの方よりご提供いただいたものです
 
箱根駅伝について

競走部OB提供

――本番直前期に、何かハプニングや予想外の出来事は何かありましたか?

1区を走る予定だった選手が、本番の前日くらいに(刺激を入れるために)グラウンドで1人で練習していた時、ちょっと縁石に乗り上げて足をひねってしまったんですよね。それで結局、1区は当日になって急きょ変更することになりました。そういうハプニングはありました。

僕自身も、普段は冬の時期に怪我することなんてほとんどなかったんですけど、記録会のときに縁石に乗り上げて軽く捻挫したり、あと食あたりをして、人生で点滴を打ってもらうなんてこともありました。2か月の間に、そういうことがいくつか重なった感じですね。今振り返ると、さっき言ったようにちょっと浮かれてた部分もあって、気が緩んでいたのかもしれません。

――箱根独特の雰囲気や緊張感を感じる場面はありましたか?

2区だったので、鶴見中継所の近くでウォーミングアップをしていたんですが、朝早い時間 帯から各大学の選手たちが集まっていて、やっぱり独特の緊張感がありましたね。 ただ、私自身は、少しリラックスしていたというか、どちらかというとミーハーな気分で、 山梨学院のマヤカや、早稲田の花田、順天堂の本川など、テレビでよく見ていた選手たちがすぐそばでアップしていて、「ああ、この人たちと一緒に走るんだな」と(笑)。

そうしているうちに、早稲田の渡辺が区間新で中継所に入ってきて、超高速となった1区に驚きました。そのあと自分が1区の選手を待つ光景は、今でも良く覚えています。

――実際に箱根路を走ってみて、どのような感情が湧き上がりましたか?

沿道の歓声は本当にすごかったですね。今でも「二重、三重の人垣」と言われますが、当時もまさにそんな感じで。沿道に人がいるところでは、自分の呼吸なんてまったく聞こえないんですよ。もう完全に拍手と声援の渦の中で、後押しされるように身体がフワッと前に進んでいく感覚がありました。

交差点に入ると一瞬、沿道の人がいなくなって静かになるんですが、また次のエリアに入ると、ものすごい歓声が飛んでくる。その繰り返しがなんとも不思議で、人生で初めての感覚でしたね。

テレビで見ていた箱根駅伝で、前半オーバーペースになって後半失速してしまうシーンもありますが、あの意味がすごくわかった気がしました。どんどん乗せられちゃうというか、歓声しか聞こえない中で走るもんだから、勝手に体が走っていっちゃうんですよね。

交差点に入ると、一瞬、沿道の人がいなくなって静かになるんですが、

――「オリジナル4」としての出場でしたが、沿道の歓声や注目度はいかがでしたか?

途中までは中央学院とか関東学院とかと一緒に走ってたんですけど、やっぱり圧倒的に「慶應、慶應!」っていう声が多くて「間違いなく自分がいちばん声援を受けてるな」と思いながら走っていましたね。

――“花の2区”を走って、最も印象に残っている出来事を教えてください。

いやもう、本当に楽しかったのは最初のうちだけですね。歓声に乗せられて気分も高揚していたんですけど、権太坂を過ぎて、一度下ってから19km過ぎに橋を渡って、そこから最後の3kmの登り。あそこは本当によく“戸塚の壁”なんて言われますけど、もう本当にきつかったです。あの辺りって、有料道路に入るので沿道の声援がなくなっちゃうんですよね。だから余計に、辛かったのを覚えています。

本当に楽しかったのは最初のうちだけですね

――レースを終えた瞬間、率直にどんな気持ちでしたか?

当時、私は襷をつなげられなかったんですよ。2区と3区の戸塚中継所で繰り上げ(スタート)が始まってしまって、僕が19番目、17位のチームから繰り上げスタートだったんです。だから、終わった瞬間はもう「襷を渡せなかった」という残念さしかなくて。自分があと1分でも早ければつなげられたわけですから、その悔しさは本当に大きかったですね。

――復路・大手町のフィニッシュ地点では、10区のランナーのゴール後に慶應チームで胴上げもあったと伺いました。その時はどういった雰囲気でしたか?

大手町のフィニッシュ地点での集合写真。前列左から2人目が片岡(競走部OB提供)

もう本当に、「やり切った」という気持ちでいっぱいでした。10区のランナーを迎える時は、長距離ブロックの全員で待っていたんですよね。ここに出たくて走ってきて、それがこれで終わるという、満足感とか達成感がものすごく大きかったです。

ゴール後は、優勝チームに負けないくらいの喜びようで(笑)。そのまま胴上げが始まって、監督もコーチも選手もみんなで、もう延々とやっていましたね。それくらい、僕らにとっては本当に特別な瞬間でした。

今の現役部員の皆さんのほうが、生活も練習もずっと質高くやっていると思いますけど、僕らにとってはあの1年間、箱根を本気で目指して、合宿所も新しくなって、生活習慣も練習メニューも全部見直して取り組んできた。その集大成として、あの瞬間は本当に喜びが爆発しましたね。

――「箱根路を走った」というご経験は、その後の人生にどのような影響を与えましたか?

当時の自分たちにとって、箱根出場は「夢」だったんですよね。その夢がいつの間にか「目標」に変わって、そこに向かってみんなで努力していった。1人じゃ絶対にできないことも、チームで支え合いながら、スランプの時には励まし合って、お互いを鼓舞しながら高め合ってやりきる。そういうチームとしての一体感や高揚感をすごく感じられた時間でした。そういう意味では、個人競技でありながらも「仲間との絆」みたいなものが強くあって、それが相乗効果になって本戦出場までつながったんじゃないかなと思います。

自分を信じること、仲間を信じること。そうした気持ちは、今でも自分の中で生きていると思います。陸上って、自分の調子や状態を常に対話しながら見つめ直さなきゃいけない競技なので、そういう「自分と向き合う時間」にもなっていました。

あの1年間は本当に凝縮された時間だったし、大きな“成功体験”を得られたと思っています

結局、人生の中でも同じような場面ってたくさんありますよね。何かを成し遂げたいと思った時に、そのために何をすべきかを考えて行動する。その繰り返しだと思うんです。そういう意味で、あの1年間は本当に凝縮された時間だったし、箱根に出られたことで、自分にとって大きな“成功体験”を得られたと思っています。

現役生に向けて
――最後に、今年の予選会に出走する現役メンバーやサポートメンバー、関係者の皆さんへエールをお願いします。

現役の皆さんは、これまでしっかりと練習を積んできていると思いますので、まずは自分を信じて、最後まで粘り強く走り切ってほしいなと思います。もちろん、結果が必ずしも箱根出場だけではないかもしれませんが、何かしらの成果を残すことが、次の世代につながるはずです。だから、最後まで諦めずに頑張ってほしいですね。

状況としては非常に厳しいのは確かですが、だからといって諦めてしまうと、希望も失われてしまいます。競走部OBで構成する箱根駅伝プロジェクトメンバーの一員としては、現状の体制の中でも少しでも箱根路に出られる環境を整え、箱根を目指す学生を最大限支援していきたいと思っています。未来の慶應生が再び箱根路を走れるように、東京箱根間を三色旗で埋め尽くす日がくるように、希望をつなげていきたいですね。

――片岡さん、ご協力いただきありがとうございました!

【OBインタビュー・了】

(取材:竹腰環、野村康介 編集:竹腰環)

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