【競走】スポーツ推薦なしの慶應、ケニアへ プロジェクトの「1人目」に求めたのは速さだけではなかった/留学生紹介企画(後編)

競走

スポーツ推薦の枠を持たない慶應義塾大学。夏の終わり、ケニアからの留学生が競走部の門をたたいた。クリントン・レマション・ロソ、19歳だ。ただ、競走部が探し続けてきたのは「ただ速い助っ人」ではなかった。慶應独自の入試制度、将来のケニアを担う若者を育てる彼の母校の教育方針、そして10年目を迎えたプロジェクト――彼の入部は、様々な条件が揃ったうえで実現されたものだった。後編では、クリントン受け入れの裏側、慶應競走部の決断と彼らが託した願いに迫る。

初陣

9月22日、朝8時半。日吉のトラックで行われた慶應同志社対抗戦。男子10000mのスタートラインに、ひときわ背の高い選手が立っていた。

クリントン・レマション・ロソ――ケニア・ナロク出身の19歳。8月末に来日し、慶應競走部の部員となった。9月からは、同大学の環境情報学部で学ぶ。

高校までは中距離を専門にし、トラックで10000mを走るのは生まれて初めてだった。記録は32分51秒。10月17日の箱根駅伝予選会に出るための参加標準記録〈34分00秒〉を切ってみせた。

慶同戦10000mに出走したクリントン

スポーツ推薦のない慶應が、なぜケニアから選手を迎えたのか。その問いが向けられることを、慶應競走部で監督を務める鹿又理氏は、覚悟していた。

「『慶應、お前もか』と言われないように、というのはずっと考えていました。スポーツ推薦があるわけでもないのに、ただ外国人を入れてきてどうするんだ、という意見はあると思っていたので」(鹿又)

※鹿又理  慶應義塾大学競走部のOBで、2022年から同部の監督に就任。短距離、長距離を含む全ブロックを率いる。

慶應競走部で監督を務める鹿又氏

「起爆剤」を探して

慶應競走部出身。そんな鹿又(以下敬称略)が母校の監督に就いて5年目。2017年に始まった「慶應箱根駅伝プロジェクト」は、今年で10年目を迎えた。短距離からは五輪に出場する選手も現れたが、長距離は苦戦を強いられていた。

始動10年目、岐路をむかえた箱根駅伝プロジェクト

「10人を揃えなければならない箱根駅伝は、簡単ではありません。今後どうしようか、何か起爆剤のようなものはないかと考えていたのは事実です」(鹿又)

プロジェクト開始とともに長距離ブロックでコーチを務めるのが、保科光作氏だ。元々大学でも長距離ランナーとして活躍した保科は、実業団時代にケニア人選手とチームメートとして過ごした。彼らの中にはオリンピックで活躍する選手もいた。その練習や暮らしぶりを肌で知り、これまでケニアとのつながりも築いてきた。

10年近く長距離ブロックでコーチを務める保科氏

そんな保科と話し合う中で浮かんだのが、ケニアからの留学生という選択肢だった。

「慶應に入れる人材が本当にいるのか。勝手なイメージで決めるのではなく、行ってみて、いなかったら仕方がない。まずは行ってみようと」(鹿又)

2025年2月、鹿又と保科を含めたメンバーは、ケニアへ飛んだ。

※保科光作  日本体育大学時代に箱根駅伝に4年連続で出場し、主将を務めた。卒業後は実業団の日清食品グループでも主将を務め、ニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝)での優勝を経験。2017年、慶應箱根駅伝プロジェクトの始動とともに長距離専任コーチに就任した。
※慶應箱根駅伝プロジェクト  箱根駅伝本戦への出場を目指して、競走部の創部100周年にあたる2017年に始まった取り組み。長距離専任のコーチとして保科氏を招き、長距離ブロックを強化してきた。慶應は1920年の第1回箱根駅伝に出場した4校の一つで、1932年には総合優勝も果たしたが、チームとしての本戦出場は1994年の第70回大会が最後となっている。
飛び込みで訪ねた学校

現地では在ケニア日本国大使館やJICA、日本企業の駐在員とつてをたどり、ナイロビ、ニャフルル、エルドレット、イテンを回った。だが長距離のクラブチームを訪ねても、選手がどの高校に通い、どれだけ勉強しているのかまでは分からない。

転機は、大使館の担当者から教えられた一つの学校だった。すぐに校長へ電話すると「すぐに来てほしい」。翌日には、もう訪ねていた。

M-PESA Foundation Academy。ケニア全47カウンティから、成績が優秀な生徒を男女1人ずつ選び、全額奨学金で受け入れる全寮制の学校だ。生徒たちのプレゼンテーションの質の高さと、すれ違うたびに交わされる丁寧な挨拶に、鹿又は強い印象を受けた。

 

入試突破と奨学金、2つ揃って「合格」

ここで、慶應最大の困難を説明しておかなくてはならない。他大学のようなスポーツ推薦がないことだ。

頼みの綱は、SFC(湘南藤沢キャンパス)のGIGAプログラムだった。英語で授業を受けて学位を取得できる課程で、入試では高校時代の成績や英語のエッセイ、自己PR動画などの提出書類で合否が決まる。

ただし門は狭い。学費をOB会が肩代わりする道は、はじめからなかった。「一人の学生のためだけに、OB会のお金が使われるものではない」というのが鹿又の考えだ。彼は候補の生徒たちにこう伝えていた。

「合格は絶対の条件。そのうえで、合格者の上位数人の枠に入って奨学金もリクエストしてもらう。その2つが揃って、初めて合格だよ」(鹿又)

「奨学金が揃って初めて合格だよということは、事前に伝えていました」(鹿又)

「速さ」より先に見たもの

彼らには、大切にした物差しがあった。「何秒で走れるか」ではない。「一人目」だからこそのこだわりだ。

「長距離の学生は合宿所で生活します。今後二人目、三人目と留学生を迎え入れていくうちに、中にはホームシックになる子もいるでしょう。その際に、一人目が次に来た子のメンターになれるかどうか。それがすごく大事だと、保科コーチとよく話していました」(鹿又)

 

その保科が、現地で何より確かめたかったのも「誠実さ」だった。

「競技にどれだけ誠実に向き合えるか。強くなりたいというハングリーな精神があるか。そこは日本人選手もケニア人選手も変わりません」(保科)

「こちらが求める誠実さやハングリーな精神があるか」(保科)

出会い

M-PESA Foundation Academyのグラウンドに、陸上部でキャプテンを務める青年がいた。それがクリントンだった。

鹿又たちは、生徒たちに向けて丁寧にプロジェクトを説明した。終了後に興味を示す生徒は何人かいたが、誰よりも熱心だったのが彼だった。

「クリントンが尋ねる質問の中身は、本当に具体的でした。走ることだけじゃなくて、日本で何ができるのか、何が勉強できるのか。そういうことへのアンテナが高かったんです」(鹿又)

高校の陸上部では主将を務めていたクリントン

初めて会った時の印象を、保科は率直に明かす。

「真面目で誠実そうで、ちょっとシャイ。正直、日本に来て順応できるかという不安はありました」(保科)

保科には、本人に確かめておきたいことがもう一つあった。中距離を専門にしてきた彼に、20kmを走り切る覚悟があるかどうかだ。箱根駅伝の予選会を一緒に戦うという方向性をすり合わせておくためだ。

クリントンは、その挑戦を選んだ。最終的に、鹿又たちは彼を競走部に迎え入れることに決めた。

 

1年以上に及んだ受験準備

「迎え入れる」とはいうものの、入部を実現させるためには、クリントン自身にGIGAプログラムの入学試験に合格してもらう必要があった。ここから、1年がかりの受験準備が始まった。支えたのは、競走部の現役部員とOBOGだ。

「GIGA入試の出願準備だけでなく、何度もオンラインでミーティングを行い、日本での大学生活や競走部での生活について説明し、彼が抱えていた環境の変化への不安や悩みについても一つずつ話をしてくれました」(鹿又)

出願に必要な書類やエッセイ、プレゼンテーション、動画の準備も、現地の学校と連携しながらサポート。あとは本人の出来次第だった。

合格発表の朝に届いた言葉

2026年3月。GIGA入試の合格発表は日本時間の正午、時差6時間のケニアでは朝6時だった。その10分後、鹿又のもとに英文でメッセージが届いた。

「無事に合格することが出来ました。あのとき会いに来てくれたこと。何度も話をしてくれたこと。その積み重ねがあって合格できたこと、全てに感謝します。そして、あなたのおかげで、これからすごく大きな未来が広がると思っています」――丁寧な長文だった。

「なかなかいいことを書くなと思いました。普通、そんな高校生はいないですよね。こういう子が第一期生として来てくれたら、次につながるんじゃないか。そう思えるメッセージでした」(鹿又)

「こういう子が第一期生として来てくれたら次につながるんじゃないかと」(鹿又・写真右)

「ただ走りに来るわけではない」

改めて、慶應は彼に何を求めているのか。

「ただ走りに来るだけではないと思っています。走るのも大事、勉強も大事。両方やってもらわないといけないし、そのバランスを崩してはいけない」(鹿又)

競走部の練習に参加するクリントン

慶應競走部が描くのは、クリントンの4年間のその先だ。日本語と英語を話し、寮生活で日本の縦社会も知った彼が、日本企業で働く。いつか駐在員としてケニアへ赴く日が来れば、両国の距離はより近づく。

「陸上でも活躍して、高校時代はそうでもなかったのに、慶應に来てこんなに速くなったと。でも陸上はそこで引退して、次は社会人として日本語もしっかり使い、グローバルな企業で働く。それができるのがクリントンなのかなと思っています」(鹿又)

ただ、鹿又はこうも言う。

「彼だけに日本に適応することを求めるのではなく、我々も彼から学び、競走部として一緒に成長していかなければならないと思っています」(鹿又)

言葉も食事も違う国で、来日したばかりの彼が努力を重ねる姿を見て、日本人部員が「俺たちももっとやらなきゃ」と思えるかどうか。150人の部員の間で、新たな化学反応が生まれることこそ、慶應競走部に期待する変化だ。

 

ここからがスタート

デビュー戦で、予選会の参加標準は切った。10月17日の予選会には、エントリーメンバーとして名を連ねている。予選会のハーフマラソンは、その倍を超える距離。本当の勝負はここからだ。保科は、距離への適応をこう見ている。

「距離の順応は、かなり難しいですよね。ハーフマラソンのトレーニングは単調でつまらない。そこに耐えられる精神力があるかどうか。チームメートと支えながら、耐えてもらうしかないと思っています」(保科)

鹿又は、記録だけで物事を測るつもりはない。

「4年後、クリントンが何分何秒で走っているかだけで、このプロジェクトの成否を判断したくありません。むしろ、ここからがスタートです」(鹿又)

合格して日本に来たことは、ゴールではない。ケニアから架けた橋を、19歳はまだ渡り始めたばかりだ。

記事は以上です。最後までお読みいただきありがとうございました

 

(記事:竹腰環、写真:野田誉志樹、山口和紀)