【競走】怪我に泣いたラストイヤー、それでも… 競走部主将が辿り着いた「青春の終点」/4年生卒業企画「光るとき」 No.75・大島琉偉

競走

25年度に卒業を迎える4年生を特集する特別企画「光るとき」。第75回となる今回は、競走部主将の大島琉偉(経4・慶應)。中学、高校、そして大学。全てで主将を担い、言葉と結果の両方で部を引っ張ってきた。ラストシーズン直前に見舞われた無情な試練。「走れない主将」への葛藤の中で、彼を支えたものとは。そして気が付いた、勝敗というモノサシでは測れない競技の価値とは。10年間の競技人生で辿り着いた「青春の終点」に迫る。

 

2025年10月、日吉競技場。

そこでは慶大競走部の引退試合が行われていた。それは、彼にとってのラストレースでもあった。真っ白いユニフォーム、胸には黒字に「K」、履きなれたスパイクシューズ。そして、目の前には真っすぐな白線と青いタータン。

スターターが位置につく合図をかける。両足の腿を何度か叩く。目をつむり、一つ深呼吸をする。前足、後足をブロックにつける。クラウチングスタートの姿勢だ。もう、なにも聞こえてこない。静寂…

オン・ユア・マーク…セット…!!

身体が前に飛んだ。ただ走る。100メートル先のゴールに向かって…

 

大島琉偉(経4・慶應)が陸上を始めたのは10年前。入学した中学の部活動には専門の指導者がおらず、彼は練習メニューのほとんどを自分で考え、夜の競技場で一人試行錯誤を繰り返した。すると、中学2年で男子100メートル神奈川県大会を制し、全国の舞台へ。積み上げた努力が結果につながったこの3年間だった。

しかし、高校進学後は、相次ぐ怪我、コロナ禍での大会中止に見舞われる。勝つこともできなければ、試合にすら出れない。努力が報われないこの時期、自分自身の価値を見失い、一度は高校で陸上を辞めることすら考えた。

それでも、大島は走り続ける。高校3年生の冬、当時大学生だった兄に慶大競走部の練習に誘われたことがきっかけだった。そこには、全国トップレベルのスプリンター達がいた。彼らは皆、自らのプロセスで競技に向き合っていた。

「ここならもう一度、自分なりのやり方で強くなれるかもしれない」――そう直感し慶大競走部に入部した。

大学でも競技を続けることを決断

大学2年でのスランプを経て、彼は大きな転換点を迎える。それまで「ただ全力で走るだけ」だった100メートルを科学的に見つめ直した。緻密なペース配分と理論で自らの走りを再構築した。

3年時には、久々に自己記録を更新。勢いそのまま、日本インカレでは4×100mリレーの正規メンバーに選ばれると、1走を務め6位入賞に貢献した。6年ぶりに戻ってきた全国の決勝の舞台だった。

3年の日本インカレでは自身6年ぶりの決勝の舞台に

1走として4継入賞に貢献

大会後には、第108代次期主将に就任。中高時代の主将の経験や大学時代の姿勢が評価されたことによる推薦だった。

「ようやくここまで戻ってこれた。来年は全部を陸上競技に捧げよう」――そう意気込んだ大島は、就職活動をシーズン前の冬に片付け、冬季練習に時間を割いた。5月の関東インカレで結果を残すこと、そしてどの大会でも“勝ち鬨”をあげること。思い描いたのは、チームを背中で引っ張る理想の主将像だった。完璧な準備をして、彼はラストシーズンに臨んだ。

主将として臨んだラストイヤー(左から2人目)

 

しかし…運命は残酷だった。4月、シーズン初戦の六大学対校陸上。100メートル予選のレース中、脚に異変を感じた。

「もう、関カレ(関東インカレ)には間に合わない。その後の大会にも出られないな」――レース後待機場所で横になりながら、そう直感した。全治4か月の肉離れだった。

競技で部を引っ張れない主将に価値はあるのか。葛藤する大島を救ったのは副将・安田陸人(商4・開成)らの同期の言葉だった。

「一番辛いのは大島だと思う。でも、最後はお前のチームだから、好きなようにしていいんだよ」

少しだけ光がみえた気がした。記録や結果で示せなくても、一人ひとりに目線を配り、誰一人置いていかない組織を作る。それが主将としての自分の役割だと割り切ることができた。迎えた関東インカレ。そこには、スタンドの最前列で喉を枯らして仲間を鼓舞する大島の姿があった。同期の活躍を、自分のことのように喜ぶことができた。

その後のリハビリの甲斐なく、主要大会全てを欠場。その秋、彼は陸上競技を引退した。

8月の早慶戦、最前線でチームを鼓舞する大島(写真右前)

 

10年間、「結果」を一番に求め続けてきた。やりきった感覚など、正直に言えば少しも無かった。けれど、彼は最後に手にした。自分自身への誇り、仲間との絆、そして「走ることが大好きだ」ということ。勝敗では測れないものだ。

「勝てなかった僕にも誇れる日々がある」――引退ブログに記したその言葉の裏には、怪我に泣き、試合に出ることができなくても、主将の重責から逃げなかった彼の想いが詰まっているのだろう。そしてその視線は、既に次のフィールドを見据えている。この10年間は、これから始まる長い人生の何より大きな礎となる。

 

彼のラストレースについて、もう少し書いておこうと思う。結果は、敗れた。タイムも全盛期のものではない。それでも…である。“約10秒”――確かにその瞬間だけは、競技人生の中で最も純粋に走ることを楽しんでいたのかもしれない。彼は試合後にこう語った。

 

「走ってみたら、ずっと笑いながら走っていたんです。あんなに純粋に100メートルを楽しめたのは、陸上を始めた時以来、いや、人生で初めてだったかもしれません」

 

(記事・写真:竹腰環)

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