【Last message】~谷あり山あり~人類の限界に挑み続けた4年間/4年生特集「Last message〜4年間の軌跡〜」No.15・三輪颯太(競走部)

競走

24年度に引退を迎えた4年生を特集する「Last message~4年間の軌跡~」。第15回となる今回は、慶大競走部・短距離ブロックのエース・三輪颯太(環4・西武文理)。六大学陸上100m優勝や関東インカレ・全日本インカレ入賞、昨年には日本代表として日の丸を背負うなど、これまで数々の実績を残してきた。しかし、彼の4年間は決して順風満帆ではなかった。入部早々味わった挫折、下した決断、その先に待っていた飛躍、仲間との絆―酸いも甘いも経験した三輪の思いに迫る。

三輪の陸上選手としての才能は入学前からすでに花開いていた。高校1年時から100m10秒台を記録していた。そんな彼を練習会に誘ったのが慶應義塾大学だった。実際に練習会に参加し、SFCなどの面白い学部があることを知ると、慶大について調べるようになり、気づけば進学したいと思うようになったという。

「大学について何も決めていない時期だったので、そんな時期から声をかけていただいたことが嬉しかったんです」

鳴り物入りで競走部に入った三輪

その後、高校3年時に100m・200m全国二冠を成し遂げた三輪は、鳴り物入りで慶大競走部に入部した。「その勢いでやっていこうと思っていました」そんな彼を待ち受けていたのは自己ベストの壁を越えることができない辛い2年間だった。全く記録が出なかった1年目のシーズンを終えて「やっぱりどうにかしないといけない」という危機感を感じ、高校までのマインドをリセットして一からやり直すことを決めたという。

「過去の栄光に囚われた自分を全て捨て、拾うべきものを一つ一つ見つけていくことは大変でした。しかし20年間持っていた走り方のマニュアルを一度全て壊し、新しく改良した結果、今の自分があると思います」

 

そんな苦しい2年間を乗り越えて迎えた大学3年時の全日本選手権4×100mリレー。この試合を彼は最も印象に残った試合だと語る。

「個人戦よりもリレーでは、勝った嬉しさが4倍になるというか、みんなで戦っている感じがして、全体意識が働くからより嬉しく感じました」

試合後にリレーメンバーと喜びを分かち合う(写真右)

彼は共に日本一を勝ち取った同期のメンバーの豊田兼(環4・桐明)を追いかける存在、篠宮健吾(政4・慶應)を追いかけられる存在と表現した。

「主将の豊田は自分よりも多くの優れた成績を残しており、さらに高いレベルを目指させてくれる存在でした。篠宮は入部当初は自分の方が速かったが、次第に練習で負けることが増え、驚異的な勢いで記録を伸ばしたことで、『絶対に負けられない』という思いを強く持つようになりました」

共に走り切磋琢磨し合える仲間の存在。そんな仲間がいる環境が彼をさらなる高みへ導いたのだろう。

主将の豊田は超えたい存在だった(写真左)

そうして迎えたラストイヤー。副将となった三輪は短距離ブロックのエースとしてチームを牽引した。この年は世界リレー日本代表に選出され、アンカーとして走り日本のパリ五輪出場枠獲得にも貢献。さらに、関東インカレでは200m、全日本インカレでも100mで入賞を果たすなど充実したシーズンを送った。

 

しかし、彼は自身の競走部での4年間を足りないレースの方が多かったと振り返る。

「4年間の目標として掲げていたパリ五輪に出場することができなかったこと、大学4年の日本選手権で僅かなタイム差で決勝進出を逃したことが本当に悔しかったんです。まだその悔しさを乗り越えきれていませんが、卒業後の競技人生の糧にしていきたいです」

今後の競技人生について1番の目標は2028年のロサンゼルス五輪に出場すること、そのためにまず大学4年で出場できなかった日本選手権の決勝に進出することを目指すと語った。彼は陸上競技を”人類の限界に挑戦するスポーツ”と語る。

「陸上競技は人類の限界に挑戦するスポーツだと思います。自分の身体一つで何ができるかが露骨に数値として現れるところが面白いんです」

 

慶大競走部での4年間は山あり谷ありだった。競技人生のどん底、自分一人の力の限界、支えを力に遂げた再起、経験した世界の舞台。すべての思いを胸に、三輪はこれからも“自身の限界”へ挑み続ける。

三輪の限界への挑戦は続く

 

(取材:竹腰環、記事:野田誉志樹)

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