24年度に引退を迎えた4年生を特集する「Last message~4年間の軌跡~」。第20回となる今回は、競走部で投擲ブロック長を務めた穂苅大和(理4・日比谷)。高校で競技を始めてからブロック長になるまでの苦悩とともに、やり投げに捧げた7年間の意義を語り残した。
「君がやらないと継ぐ人がいないんだよ」の一言からだった。
当初はラグビーに興味を持っていたが、クラスメートに誘われて陸上部の新歓へ足を運んだ。他の人が中距離や短距離を希望している中で、先輩からのその一言が胸に刺さった。
穂苅の競技人生は「投擲」という言葉すら知らない中で始まったのである。

先輩の言葉がきっかけで始めたやり投
当初は苦戦した。重心が中央にない棒状のやりを投げるのは簡単ではなく、まともに投げられるようになるまで半年ほどはかかったという。気づいた頃には、やり投の魅力に惹かれていき部活に熱中していた。
「個人競技のため自分が努力する分だけ伸びていきますし、やり投は他の投擲競技と違って体の使い方次第で小さい人間でも遠くまで飛ばせることが面白いと思いました」
しかし、高校3年生の時にはコロナ禍でインターハイが中止に。不完全燃焼で終わってしまったが、「このまま俺の陸上人生終わっていいのか」という思いが慶大競走部への入部につながった。
陸上強豪校出身ではなかった穂苅にとって、インターハイ優勝経験者などのチームメイトの実力は驚異だった。
「先輩たちは普段の食事、体のケア、体をどう動かしたらどういう動きができるのかという想像性など思考のレベルが一段も二段も上でした」
必死に食らい付く日々の中で、慶大競走部の自主性を重んじる環境は追い風になった。

共に戦い抜いた同期
転機が訪れたのは大学1年の終わり。肘のじん帯を痛め、思うように投げられない期間が続いた。肘を庇うようなフォームになり記録も伸びなかった。
しかし、穂苅は外部コーチの力も借りつつ自身で試行錯誤で続けた。そして、肘を庇ったフォームではなく体全体を自然に使った投げ方に改善。違和感がなくなって秋には高校以来の自己ベストを更新、成長を実感した瞬間だった。
3年次にも苦しいシーズンを過ごした。筋力はついている実感はあるのに記録は伸びない。そんな中で迎えた関東インカレで目の当たりにしたのが、当時の主将でやり投の伊藤達也さんの活躍だ。今まで全国レベルでは実績がなかったが、悪天候のなかで自己ベストを大幅に更新。主将として競走部を関東1部に残すんだという強い意志を感じた。その先輩の姿を見て穂苅は「自分の最後の1年間が変わった」と話す。

覚悟を胸に臨んだラストイヤー
いざ4年生になると、穂苅は投擲ブロック長に就任。
「もともと自分たちの代には投擲ブロックの選手が1人しかいなかったので、自分がブロック長になりました。ただ、なったからには『一人しかいなかったらブロック長になった』とは言わせない。しっかり訳があってなっていることを証明する」
穂苅は強い覚悟を持っていた。
当然、プレッシャーもあった。同期の幹部はパリ五輪出場の豊田兼(環4・桐朋)をはじめトップレベルの選手ばかり。
「ブロック長として結果を出さないと言葉に重みも出てこないし、自分が強くならないといけない」
プレッシャーを自分を鼓舞する原動力に変え練習に励んだ。
しかし、関東インカレには最後まで出場できなかった。
それでも、その後は自分の中で設定していた大台を突破すると、4年生の1年間はベストを更新し続けることができた。穂苅は「過去」と「自分」に勝ち続け、大学競技生活にピリオドを打った。

「過去」と「自分」に勝ち続けた4年間
7年間の競技生活を通じて感じたこと、それは「上の人にとって当たり前だと思っていることは下のレベルの人からしたら当たり間じゃない」ということだ。
慶大競走部に入りトップレベルの選手の話を聞くようになると、大きな軸を持っていることを痛感した。そして自分が高校生の時は枝葉の先端の先端くらいしか知らなかったことに気づかされた。
投擲という言葉すら知らないところからは初めて全国トップレベルの選手と同じ環境で過ごすまで、やり投に捧げた7年間を「一番下からどんどん上の世界をたどっていくための人生の過程だったのかなと」と振り返り、笑顔で締めくくった。
【Last message】
投擲の後輩へ、
慶應競走部に入ってきてくれて本当にありがとう。競技だけに打ち込める4年間、悔いを残さぬよう全力で駆け抜けてください。公式戦での活躍現地でみるの楽しみにしてます。またいつでもご飯いきましょう!楽しみに待ってます!

チーム競走ブロック
(取材・記事:長沢美伸)